『わたしを離さないで』以来10年ぶりの長編は、なんとファンタジー色の濃い作品でした。記憶を薄れさせる霧、ドラゴン退治への旅、秘密を隠した修道院、アーサー王伝説の騎士など、中世の騎士伝説そのままの世界が、本書の舞台なのです。
物語はブリトン人の老夫婦アクセルとベアトリスが、記憶を失いつつあることを不安に思う所から始まります。遠い地で暮らす息子の記憶を失う前に、息子を訪問しようと、長年暮らした村を後にした2人の冒険は、思いもよらないところに行きつくことになるのです。
ローマ人が去った後のイングランドを支配した、ブリトン人の王アーサーの死後しばらくたった時代。ブリトン人に蹂躙されたサクソン人が、東方からの入植者を迎え入れて膨張しつつある時代。アーサー王は騎士ガウェインに何を託していたのか。アクセルとは何者だったのか。そして、記憶を取り戻すことは、何を意味しているのでしょうか。
著者は本書のテーマについて、「人はどんなことは記憶し、どういうことは忘れるのか。そして社会や国家はどんな、ことを記憶にとどめ、いかなることは忘れようとするのか」と語っています。その背景には、隣人同士が憎しみをぶつけ合ったボスニアの内戦、ルワンダの大虐殺、さらには大戦後の欧州や東アジアで起きた粛清などの悲しい歴史があるのです。
それは、老夫婦にとっても悩ましい問題なのです。夫婦間や息子への愛の記憶とともに、封印しておきたかった暗い記憶も蘇ってくるのですから。もちろん、負の記憶を忘れることなく直視して、乗り越えるできだという「正論」は、誰しもわかっているのですが・・。
デビュー作の『遠い山なみの光』以来、一貫して「記憶の欺瞞」の問題に取り組んできた著者の到達点が、ここにあります。
2015/8