りぼんの読書ノート

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ワインズバーグ・オハイオ(シャーウッド・アンダスン)

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川上弘美さんが『どこから行っても遠い町』について「本書のような作品を書いてみたかった」と述べているのを見て、この本を手にとってみました。

本書によって生まれた「平凡な町の平凡な人々の群像劇」というスタイルは多くの人によって用いられ、最近読んだだけでも、『 シンセミア(阿部和重) 』、『無理(奥田英朗)』、『ミサキラヂオ(瀬川深)』などがありますが、深みを感じたのは『海炭市叙景(佐藤泰志)』くらいで、だいたいはつまらなかったというのが実情です。

しかし本書は「ワインズバーグ方式」を生み出したパイオニア的な作品だけあって、構成にも内容にも素晴らしいものがありました。冒頭に「少しだけグロテスクな人々の行進」という老作家の夢を置いて、若い新聞記者見習いのジョージ・ウィラードが見聞きした町の人々の姿を描き出し、最後にジョージ自身が町を離れて都会へ旅立っていくという展開には一本筋が通っていますし、ひとつひとつのエピソードも著者の深い人間観察が生み出したものなのです。

ワインズバーグという町は架空のものですが、アメリカが近代的な工業国へと向かう20世紀への入口であった1895年という年代が、前世紀に置いていかれる者とそうでない者の違いを際立たせています。誰に負けたわけでもないのに、取り残されてしまう者たちが勝手に抱く「敗北感」とでもいうようなものが「ちょっとだけグロテスク」なものの正体のようです。

幼児性愛者と誤解されて職を追われた元小学校教師も、妻を亡くし自分の考えを書き込んでは紙くずにしている医師も、都会に去った男を待ち続けてオールドミスになってしまった女性も、部屋から見えた女性の寝姿に取り憑かれてしまった牧師も、まだ少年である教え子に愛情を抱いてしまった女教師も、子供っぽい性格から成長できずに妻と家族に去られた男も、孫に多くを期待しすぎて出奔されてしまった農場主も皆、「勝手な敗北感」を漂わせているんですね。ホテル経営に失敗したジョージの父も、病弱な母もその例外ではありませんし、ジョージの見送りに間に合わなかった恋人のヘレンも、取り残されてしまいそうです。

おそらく唯一の例外が、5才の少女かもしれません。アル中のよそ者から「失敗することによって新しく生まれ替われる・・・愛されるだけの強さがあるという資質」がある女性にふさわしい名前である「タンダィ」と呼ばれて、「タンディになりたいよう」と泣いた少女は、どのような人生をおくったのでしょう。

否応なく工業化の波に包囲されつつある19世紀末のアメリカの田舎町と、グローバリズムに飲み込まれそうな現代日本の地方都市には共通点が多いように思えるのですが・・。

2012/10