りぼんの読書ノート

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黒い犬(イアン・マキューアン)

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幼い頃に両親を亡くしたジェレミーは30代の半ばに結婚するのですが、妻の両親のバーナードとジューンの人生に強い興味を覚えて2人の回想を聞き始めます。大戦後すぐに出会って結婚し、かつては深い愛情と共産主義の理想をともにしていた夫婦の関係が、どうして突然の破綻を迎えることになってしまったのかを理解したいと思ったのです。

バーナードが代表するのは合理主義です。かつてはイギリス共産党のメンバーであり、ハンガリー動乱共産主義に失望して離党したものの、その後もリベラル左派の立場を信奉し続けています。一方のジューンはスピリチュアルな存在を信じており、2人の主義主張の違いが別居の原因となっていったんですね。

ジェーンが神秘主義に傾倒して行ったきっかけは、新婚旅行でフランスの田舎町を訪れた際に「悪の象徴」である2匹の「黒い犬」に襲われたことだというのですが、合理主義者のバーナードは、それを一笑に付してしまいました。

合理主義とも神秘主義とも一線を画しているかのような「黒い犬」とは何なのでしょう。それはどうやら暴力とか虐殺などの「悪」を象徴しているもののようです。著者は、第二次大戦終結後の希望が後にたどった運命と、冷戦終結歓喜を重ね合せて、それでも「黒い犬」が象徴する「悪」の再現を阻止することはできないのではないかと危惧しているようなのです。

ジェレミーの物語に戻っても、彼が妻と出会ったのが「強制収容所の史跡」だったことは象徴的ですし、ジューンの死後、ジェレミーとバーナードがベルリンの壁崩壊の現場に立った際に、鍵十字の刺青をつけた若者に襲われたことは、より直截的です。

戦後欧州の思想を代表する合理主義も神秘主義も克服できなかった「黒い犬」の前では、家族を知らずに育ったジェレミーが大切にしている妻との営みのような、個人レベルの努力すら無力なのかもしれません。著者の分身であるかのようなジェレミーですら、暴力の衝動を感じることがあるというのですし・・。しかし、それでもなお、「黒い犬」を押さえ込む努力はし続けなくてはならないという、著者の真剣さが、ひしひしと伝わってくる作品です。

2011/6