りぼんの読書ノート

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ナニカアル(桐野夏生)

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本書は「林芙美子の手記が発見された」との設定で、昭和17年に陸軍報道部の嘱託としてジャワやボルネオなどの南方戦線を訪問した際の「できごと」を創作した小説です。「ナニカアル」とは、林芙美子日中戦争従軍記『北岸部隊』の冒頭にある詩の一節。「なにかある 私は今、生きている

まず、この設定がすごい。現代の作家が、実在の著名な作家の手記(作品?)を創作してしまうのですから。史実との整合性や、文体の模倣のみならず、「林芙美子」という人間に同化してしまわないとできないことですし、さらに新しい「ナニカ」をも付け加えなくてはならないのですから。並の作家では、まず怖くて書けないでしょう。

この南方戦線訪問は、かつて芙美子も自発的に参加した中国への「ペン部隊」とは異なって、軍部による「徴用」です。「徴用は懲用」とも言われたように、参加を強制され、書く内容を検閲され、さらには憲兵によるスパイ行為まで半ば公然と行なわれる中で、芙美子は何を思い、どう振舞ったのか・・。

本書のテーマは前作INと同様に、女性作家と男性編集者のダブル不倫であり、戦時中であったにもかかわらず芙美子が養子を貰った「謎」にまで踏み込んだ内容となっています。敵潜水艦の脅威や軍部の監視の下で命懸けの逢瀬を重ねる芙美子の心情は、かなりの部分、桐野さんによる造形が大きいような印象がありますが、それだけではありません。

窪川(佐多)稲子、美川きよ、水木洋子ら、同行した女流作家たちや、横暴な軍部への芙美子の言動が、いかにも彼女らしいアナーキーな率直さと、明るい品のなさ満ちていて、生き生きとしているんです。かなりチャレンジングな試みですが、成功しているように思えます。桐野さんは、芙美子の中に自分と共通する「ナニカがアル」として本書を著わしたのでしょう。『放浪記』や『浮雲』を読み返したくなりました。

2010/7