りぼんの読書ノート

Yahooブログから移行してきた読書ノートです

親鸞(五木寛之)

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昭和を代表する文豪であり、仏教にも造詣の深い著者が、青年僧・親鸞の魂の彷徨を描いた大傑作・・・と期待して読んだのですが、アレッという感じで終わってしまいました。

底辺に生きる者たちとも交流していた少年が比叡山に入り、20年に渡って厳しい修行を行なっても悟りを得るに至らない。やがて往来で説教する法然の「専修念仏」の教えの中に、凡夫である自分も衆生も救済される道があると信じ、叡山と決別して弟子入り。その後も「悪人も救われるのか」と自らに問い続け、ついに師を乗り越えに至るまでの親鸞の半生が小説的に描かれるのですが、なんとなく「薄い」。

宗教論の部分には(自分が素人のせいかもしれませんが)、説得力を感じました。親鸞の代名詞とも言える「悪人正機説」を正面に出すことなく、「専修念仏」の持つ「危うさ」と「選択(せんちゃく)」によって専修念仏以外の既存仏教を切り捨てていく「厳しさ」は、わかりやすく表現されています。

ただ、脇役たちの描き方が浅いように思えてしまったのです。悪人の代表であり親鸞を恨み続ける黒面法師も、法然一派を敵視する延暦寺座主の慈円も、法然の弟子の中の過激派であり道を踏み誤る遵西も行空も、あまり迫力がないんですね。親鸞の叡山での同僚で危うい美少年の良禅などは、何のために登場したのかと思ったほど。

犬丸と妻のサヨ、河原坊、法螺房、ツブテの弥七など、親鸞の味方である底辺の者たちも、親鸞を誘惑する傀儡女の玉虫や、親鸞に振られて転落していく鹿野も、類型的に思えます。親鸞の妻となる紫野(後の恵信)などは、もはや生身の女性とも思えません。

後白河法皇による院政とか、源平対立とか、時代背景の説明はサラッとあったものの、登場人物たちが歴史の中で息づいているように思えなかったのは、どうしてなんでしょう。五木さんの筆力が衰えたなどとは思いたくはないのですが・・。

2010/6読了