りぼんの読書ノート

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隠し剣孤影抄(藤沢周平)

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ただひとりに授けられた「秘剣」の使い手は、大半が日ごろうだつの上がらない下級武士。とても秘剣の伝承者とは思えないような男女が、お家の一大事や上司の命令や武士の一分のために、やむを得ず最後の手段としてそれまで隠されていた秘剣を使う。まさに、藤沢美学の極地ともいうべき、ストイックな武士たちが描かれています。

彼らが秘剣を振るうに至るまでの事情やいきさつも、キレが良く、素晴らしい物語なのですが、場面の描写だって、ストーリーや人物造形に負けていません。長くなりますが「秘剣」の描写を記録しておきましょう。どれも、凛とした小気味よい文章です。

「邪剣竜尾返し」 秘剣を打ち砕くために妻を犠牲にした男を迎え撃つ「騙し技」
じわりと赤沢の五体に力がみなぎるのが見えた。赤沢の剣先が動いたとき、紘之助は刀を下段に引いた。背を向ける。だがそのとき、足は次の一撃のために構えられているのだ。赤沢が何か叫んだ。一挙動で、紘之助は振りむきざま、赤沢の肩を深ぶかと斬っていた。

「臆病剣松風」 あまりの臆病さを妻からも見下されていた男が振るう「守りの秘剣」
休みのない攻撃をうけて新兵衛は頼りなげに動いていた。風に吹かれる葦のように見えたが、よくみると、斬り合いがはじまった場所から、一歩も退いてはいないのだった。新兵衛は躱し、受け流し、弾ねかえし、ことごとく受けていた。そしてその間に、新兵衛の腰は次第に粘りつくように坐り、背は強靱な構えを見せはじめていた。新兵衛は一枚の柔軟な壁と化し、刺客はそこから一歩も踏み出すことが出来ないでいた。

「暗殺剣虎ノ眼」 藩主の命で父を暗殺した、闇の中でも振るえる秘剣を使う男の正体は?
その帰り道で、志野はひゅっという鋭い音を耳にし、同時に目の前に光るものを見た。はっとのけぞったとき、周助がその光るものを掴んでいたのである。それは竹の矢だった。飛んできた矢を掴むということは、よほどの修練を積んだ人間でないと、出来ないことではないのか。

必死剣鳥刺し この剣を振るうのは、自らも半ば死んでいる時という最後の手段
「しぶとい男だったが、やっと参ったかの」津田民部が、三左エ門の前に立ってそう言った。津田をたしかめるように三左エ門の顔をのぞき、腰をのばすと三左エ門が握っている刀を蹴ろうとした。絶命したと思われた三左エ門の身体が、躍るように動いたのはその瞬間だった。三左エ門は片手に柄を握り、片手を刀身の中ほどにそえて、槍のように構えた刀で斜めに突きあげていた。刃先は津田の鳩尾から肺まで深ぶかと入りこんだ。

「隠し剣鬼ノ爪」 夫のために捨て身の行動に出た人妻を辱めた上役は許せない!
廊下の端に、堀が姿を現したとき、宗蔵もこちらから歩き出した。宗蔵が腰をかがめて、二人は擦れ違った。堀は立ち止まって、擦れ違った宗蔵を見ようとしたようだった。少し首をねじむけた姿勢のまま、堀は不意に膝を折り、前にのめった。匕首は堀の胸を刺し、擦れちがったときには、懐の中の鞘にすべりこんでいる。刃の上に一滴の血痕も残さないのが、秘剣の作法だった。

「女人剣さざ波」 不器量であるがゆえに夫から疎まれていた妻が、夫のために振るう秘剣
打ちこめばその瞬間に斬られ、ひくと女はすばやく踏みこんできて、やはり籠手を打った。その攻撃は執拗をきわめた。  小さな波が岩を洗い、長い年月の間に、そこに穴を穿つのに似ていた。浅く軽い打ちこみが、骨にとどいていた。遠山は右腕がほとんど感覚をうしなってきているのを感じながら、一気に勝負をつけるしかないと思った。焦燥で頭が灼けるようだった。遠山は剣を一気に上段に上げた。が同時に、遠山は低く叫んでいた。右手が柄を離れ、だらりと下に垂れたのを感じたのだった。影のように女の姿が眼の前に迫り。瞬時に横をすり抜けて行く。

「悲運剣芦刈り」 亡き兄の未亡人と契ってしまった男の末路
呼吸が合致し、二人は同時に踏みこんでいた。また耳ざわりな音がひびいて、兵馬の刀は二つに折れた。兵馬の丸い身体が、おどり上がるように動いたのは、その瞬間だった。剣を折らせると同時に兵馬はさきに鯉口を切っていた小刀を抜いて、必殺の一撃を炫次郎の頸に叩きつけていたのである。

「宿命剣鬼走り」 後継ぎを失った初老の男が、家すら捨てて長年の仇敵に挑みます
その変幻の走りから、突如として十太夫は疾走に移った。伊部の構えの、一瞬の遅れを見た疾走だった。拳をはなれた鷹のように、十太夫は、真直ぐ伊部に襲いかかっていた。一瞬にして二人の距離が縮まった。伊部帯刀の腰が沈み。白刃が暗い宙を薙いだ。その頭上を、鳥が翔け過ぎるように十太夫の身体が跳び過ぎた。ただ一瞬の刀合わせだったが、伊部はそのまま声もなく前にのめった。

2010/2