りぼんの読書ノート

Yahooブログから移行してきた読書ノートです

ティンブクトゥ(ポール・オースター)

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なんと本書の主人公は「犬」でした。名前はあります。「ミスター・ボーンズ」。翻訳を手がけた柴田元幸さんによると、表紙の犬の写真はオースターさんの実際の飼い犬とそっくりのものを使ったとのことで、もうこのイメージで読むしかありませんね。

ボーンズはこれといった血統も特徴もない7歳の雑種犬なのですが、人間の言葉を理解でき、飼い主のウィリーを愛し、信頼しています。ところがこのウィリー、4年前に母親を亡くして以来ホームレス生活を続けており、精神も病んでいる中年男なのです。

物語は、重い病にかかっているウィリーが死を前にして、ボルチモアの街をボーンズと共に彷徨い歩く場面から始まります。長年書きためた原稿こそ、彼が生きた唯一の証と思い込み、原稿とボーンズを託す相手を必死で捜し求めていたのです。ウィリーは、少なくともボーンズのほうは、誰にも託せないままに亡くなります。ボーンズは、かつてウィリーが「ティンブクトゥ」と言っていた「あの世」に行ったと考え、いずれ自分もそこにたどり着いてまた一緒に暮らしたいと願いつつ、旅に出るのですが・・。

ボーンズがウィリーに感じていた愛情と信頼は、純粋で絶対的なものでした。ウィリーにとっても、彼が他に何も持っていないとの理由で、ボーンズは唯一無二でした。ボーンズはその後「理想的な飼い主」とめぐり合うのですが、重要なことに気づいてしまいます。今度の飼い主にとって、ボーンズは愛する対象ではあっても唯一無二の存在ではなかったのです。

人間の立場から見ると、当然のことですよね。いくら犬好きの人でも、愛する家族も守るべき生活もあるし、飼い犬が全てに優先する生活などあり得ない。犬のほうだって「それが当然」とわきまえてくれていると期待したい。ところが、一旦ウィリーのような飼い主と「運命の出会い」をしてしまった犬にとっては、普通の距離感を物足りなく感じるはず・・というのが作者の問題提起なのでしょう。

それは、人と人の関係に置き換えてみるとよくわかります。恋人が、連れ合いが、家族が、友人が、自分にとって絶対的な唯一無二の存在なのか。仮に、相手にそう思われてしまったら、「重すぎる」と感じるのではないか。この本は、そういった「非純粋性」を読者に問いかけるものだったように思えます。何もかも失ったウィリーだけが、「純粋性」を保っていたわけです。

普遍的に存在する「非純粋性」こそが、いつの時代にも「純愛」を人気あるテーマとしている理由なのかもしれませんね。エンディングのボーンズの「決意」は、ショッキングでしたが・・。

2009/2