りぼんの読書ノート

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そろそろ旅に(松井今朝子)

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駿河で同心の家に生まれた重田与七郎は大阪の材木問屋の養子に入り浄瑠璃作家になりますが、何のヴィジョンもなく、ただふらふらと旅立ちたいと思う心のまま江戸に出て作家を目指します。

当時の江戸は、山東京伝黄表紙・洒落本の全盛時代。蔦屋重三郎の元に世話になった与七郎も、京伝の亜流として戯作者の道を歩み始めるのですが、何か違うという感覚を捨てきれません。当時流行の軽い風俗小説の枠に収まりきらなかったのは後の滝沢馬琴式亭三馬も同様でしたが、与七郎は自分の進むべき道も決められなかったのです。そんな与七郎に常に現状肯定を促すのは、太吉という駿河時代からの従者。実はこの太吉の正体こそが、作者が仕掛けた大技なのですが、ネタバレは避けておきましょう。

でも、これは言ってもいいですね。与七郎は、後に十返舎一九を名乗って、江戸時代最大のベストセラーを生み出すことになるのです。その作品こそ、旅を愛した与七郎にしか書けなかった『東海道中膝栗毛』に他なりません。

道草を繰り返していた与七郎が、ついに自分の独自性を生かして、自分の進む道を見出すまでの青春物語なのですが、大阪の浄瑠璃や江戸の出版事情への造詣が深い松井さんならではの小説に仕上がっています。40代半ばまで歌舞伎関係のお仕事をされた後に作家に転身した松井さんは、主人公を自分と重ね合わせていた部分もあったのでは?

そして、この小説をそれだけのものとしていないのは、先にあげた太吉の存在です。旅の小説でありながら観光情報には一切触れず、弥次さん喜多さんの道中体験記だけを綴った『膝栗毛』という作品は、滑稽本でありながらどこかダークなものを感じさせるのですが、そこまで踏み込んで主人公の造形を完成させた傑作だと思います。

2009/1