視力を失いつつある古典ギリシャ語の男性講師。言葉を取り戻すために古典ギリシャ語を学び始めた失語症の女性。身体の異変に加えて、他者との関りにおいて大きな喪失体験を持っている2人の間に、濃密な時間が流れていきます。
2人を繋ぎ合わせる言語が古典ギリシャ語であるのは偶然ではありません。能動態でも受動態でもない中動態を有する言語。美しさと厳しさと高潔さが同一の言葉で表される言語。ひとつひとつの言葉が将来のあるべき姿であるイデアを内包している言語。プラトンが解説するギリシャ哲学の世界が、現代を生きる2人の男女の背景に広がっているようです。女性が言葉を失ったのは自分の意思でもないし、単純に奪われたわけではありません。また男性のボルヘス的な体験は、物語の要所ごとにくさびを打ち込んでいるようです。
ある評論家は2人の出会いを「新たに生まれる言語と死滅した言語が出会い、体と体を触れ合わせる刹那」と表現しているとのこと。しかしそこで終わりではありません。女性が抱えている問題は何も解決されていないし、男性の未来も見えてきません。そんな2人の関係が続いていく保証などどこにもないのです。それでも深海から浮上してくるイメージが語られる本書のエンディングからは、明るいイメージを感じ取れます。2人は互いの苦しみを共有する準備ができたのかもしれません。そしてもし、2人の関係を表現する言葉があるとしたら、それは何らかのイデアを内包しているように思えるのです。
2025/7