では『女王ロアーナ』のどのような点が批判されているのでしょう。どうやら著者はこの本を「小説」ではなく「収集家の記録」として位置付け、収集リストの不完全さを責めているようです。もっとも、時代を象徴する文化的遺産を完全に収集することなど不可能であり、ゴールなどありえないことは、著者もエーコもわかっています。
エーコは「(ヤンボが籠った)屋根裏部屋は私自身を発見するのを助けてくれるのだ」と語っており、決してコレクションに博物館的な価値を見出そうとしているわけではないことを、あらかじめ述べています。著者は「ヤンボをTVの前にも置くべきだったのだ」と指摘していますが、個人的な記憶形成過程の再現方法にまで難癖をつけるのは、やり過ぎの感がありますね。
とはいえ著者がエーコ批判を、エーコ本来の土俵である「記号論」の世界で繰り広げていく過程は楽しく、『フーコーの振り子』の登場人物たちが、テンプル騎士団の秘密を牽強付会的に暴いていく様子を彷彿とさせてくれます。エーコの名前を用いたアナグラムだけでも、17通りもの言葉が生み出せるとは驚きです。まあ本書は、本格的な批判の書というよりも、からかいの感覚を楽しむ作品なのでしょう。
それよりも本書が、2018年1月にようやく出版された『女王ロアーナ』の邦訳に先んじて、2010年6月に出版されていることに驚かされました。当時はまだ、この本の読者など日本にはいなかったと思うのですが。
2018/7