りぼんの読書ノート

Yahooブログから移行してきた読書ノートです

蘇我氏(倉本一宏)

イメージ 1

古代日本の大豪族であった蘇我氏というと、稲目、馬子、蝦夷、入鹿と4代に渡って権力の中枢にいながら、乙巳の変中大兄皇子中臣鎌足に討たれて滅亡したという印象があります。確かにその後、中大兄皇子に組した傍流の蘇我倉山田石川麻呂も冤罪で自害させられ、その系統の赤兄と果安が壬申の乱大友皇子側について敗れて以来、蘇我氏の名前は歴史から消えてしまいます。

しかし著者は、蘇我氏は名前を変えて古代豪族から律令貴族へと変身し、権力の中枢に位置し続けたというのです。本書は、一族の始祖とされる稲目から平安末期までの蘇我氏の歴史を、東アジアの情勢と関連付けながら丁寧に追いかけて、蘇我氏のイメージを一新させる力作となっています。

蘇我氏の由来についてはよくわかっていないようです。当時の先進技術集団を擁し、仏教伝来にも貢献したことから帰化人説も唱えられていますが、著者はそれを否定します。確かに、葛城周辺の土着勢力が力を蓄えて、一族の長である稲目を輩出したと考えなければ、蘇我氏が広範で分厚い勢力となったことの説明はつかないように思えます。

蘇我氏4代の活躍や、厩戸王子(聖徳太子)との関係や、乙巳の変についても考証がなされますが、ここは割愛しましょう。問題は、傍流であった蘇我倉山田石川麻呂の系譜がどう続いたのか。4人の男児のうち、日向は筑紫宰となったあと消息が絶え、赤兄と果安は先述のように壬申の乱で没落したものの、早世した連子の系譜が「石川氏」として連綿と続いたというのです。連子の娘である蘇我娼子が、藤原不比等に嫁いで藤原四家の祖となる4兄弟の母となったことも大きいですね。

かくして石川家は「連子-安麻呂-石足-年足-名足-真守」と続いていくのですが、やがて藤原氏の興隆の中で、中級貴族へとランクダウン。姓を「宗岳(そが)」に戻しても、その傾向は変わらず、各地に分家した田口氏、桜井氏、田中氏、小治田氏、川辺氏、岸田氏、久米氏も同様の運命をたどったとのこと。やがて、各地の領主や武士の中に埋もれていったようです。戦国時代に四国の覇を争った長宗我部氏や香宗我部氏も蘇我氏の末裔なのかもしれません。

2018/4