りぼんの読書ノート

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彼岸過迄(夏目漱石)

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修善寺の大患」以降の漱石が著した「後期3部作」では、自意識を自覚するが故の近代人の苦悩が深まっていきます。本書のタイトルは1月1日に連載を開始した小説を彼岸過ぎまで書くつもりだったことに由来しているだけで特段の意味はなく、様式的にも短編の集まりにすぎないのですが、ひとつひとつのエピソードが深いのです。

大学を卒業したものの職を得られない敬太郎は、下宿の同居人であった森本が満州で放浪生活に入ったとの手紙を得ますが、これはまだ輪郭だけの浅い話。友人の須永が叔父の実業家・田口を紹介してくれたことをきっかけに知ることとなった、須永と彼の親族たちの話のあたりから、本書の凄みが出てきます。

実業家の田口が語るプラグマティックな社会観も、もう一人の叔父で高等遊民の松本が語るアンニュイな人生観も当事は新しかったのでしょう。しかし最も凄みがあったのは須永自身の物語でした。誠実だが行動力のない内向的性格の須永にとって、純粋な感情のまま自由奔放に行動する従妹の千代子との関係には、出口がありません。須永自身、千代子が「夫婦なのか、朋友なのか、敵なのか」理解できないまま、心の底では惹かれているのですから。

須永に対して「細君にもしようと思っていない女性に対して嫉妬するとは卑怯」と須永を罵る千代子の言葉が本書のクライマックスですね。このあたり、漱石は自分自身の苦悩を須永に仮託していたように思えます。そしてもうひとつの出口の見えない関係が、須永と母の間にあったのです。

これらの話を聞きながら、自分自身が何の行動を起こしてもいないことを恥じる啓太郎の姿もまた、漱石の苦悩の片割れです。自意識と他者との関係の問題は『行人』や『こころ』に引き継がれていき、やがて「則天去私」の精神にたどり着くのですが、その境地を著すはずだった『明暗』が未完なのが惜しまれます。

2013/10