第1部『春の雪』では松枝清顕、第2部『奔馬』ではその生まれ変わりとされる飯沼勲の視点から書かれていたのに対し、これまで観察者の役割を果たしてきた本多の視点から書かれた本書では、「転生」というテーマの意味が大きく揺らぎ、起承転結の「転」にあたる作品となっています。
47歳となった本多はビジネスで訪問したタイで、「日本人の生まれ変わり」だと主張する幼いタイの王女ジン・ジャンと出会います。清顕が勲へと転生を果たした現実を見せ付けられていた本多は、転生の証である黒子を有するジン・ジャン姫を疑うことはできません。
しかし、直後に訪れたインドのベナレスで火葬風景をみて「近代的自我」の思想を打ち砕かれた本多(すなわち三島本人)は、極端なニヒリズムに陥ってしまいます。輪廻転生を繰り返す主体である「阿頼耶識」とは無ではないのか・・。
さらに10年後、58歳となった本多は日本に留学してきた18歳のジン・ジャンと再会するのですが、幼い日の記憶を失ったジン・ジャンが清顕と勲の生まれ変わりであると確信できなくなっています。本書を「転生の物語」と信じて読んできた読者は、著者に裏切られてしまうのです。
女神のような美の化身として描かれるジン・ジャンは、転生の産物なのか。
そうだとしたら、清顕の、勲の、ジン・ジャンの自我とは、何を意味するのか。
それとも全ては本多が望んだ解釈にすぎないのか。
そうだとしたら、清顕の、勲の、ジン・ジャンの自我とは、何を意味するのか。
それとも全ては本多が望んだ解釈にすぎないのか。
破滅的な愛に捉われた清顕や、純粋な使命に捉われた勲と同様、ジン・ジャンもまた、意外なものに捉われて身を滅ぼしてしまいます。転生とは永遠に繰り返される過ちを意味するのか。ついには至高の美に至る手段ではなかったのか。
結論は出ないままに本書は終わり、読者は置き去りにされてしまうのですが、大いなる謎は最終巻の『天人五衰』で明らかにされるのでしょうか。
2012/8