このペリーという人物、当時のアメリカ海軍の最上級官位であった大佐にまで上り詰めたものの、50歳をすぎて大洋郵便蒸気船総監察という名誉職に就き、日本に赴く前は半ば余生のような状態。しかもアメリカで「ペリー」というと、独立戦争時の海軍の英雄であった兄が有名であり、弟はずっと兄に劣等感を
抱いていたのではないかとまで書かれています。
抱いていたのではないかとまで書かれています。
そんなペリーが海軍の人材不足から東インド艦隊司令官となり、アジア航路の確保に向けた日本の開国と国交樹立という大役を担うことになりました。このときペリー、57歳。アメリカ西部のフロンティアは消滅し、その先に広がるのは太平洋。日本こそが「フロンティアスピリットの赴く運命の地」と意気込むのですが、中国でのアヘン戦争の後始末もあり、希望する陣容は揃えられないなかでの出港となります。
それでも強引に琉球王国を押さえ、長崎の出島ではなくて江戸への入港を計り、武力行使をちらつかせて対日本政府交渉を優位に進めたのは史実の通りですが、1年後に再訪したときには、日本側も堂々と互角に交渉したとのこと。「若い国家」アメリカから見た日本は、新鮮で立派な国家だったようです。
ペリーに(たぶん日本にも)気の毒だったのは、日米和親条約を結んで堂々と帰国した時には、南北戦争の前夜となっていたアメリカにとって、日本は既に関心の外になってしまっていたこと。その後は英仏が開国の主導権を握っていきます。
ペリーがアメリカで有名でないのには、そんな事情があったんですね。歴史とは、双方の当事者の側から見て理解できるという例のような本でした。
2011/9