りぼんの読書ノート

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ブルーミング(スーザン・アレン・トウス)

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1950年代のアイオワ、「居眠りしているようなスモールタウン」のエイムズで育ち、「背が高くてハンサムな夫と可愛い2人の子どもと愛犬に囲まれてピクニックしている、美人でお洒落な女性」を理想としていた著者が、実際に母親となって娘のジェニファーを育てながら、思春期の思いや生活を丁寧に掘り起こして記した回想録。

現代の女子学生から「独善や偽善や偏見に満ちていたあの時代は悪夢だったのでは?」と詰問され、「完璧ではないけれど悪夢ではなかった。人生への準備はできていなかったけどできている女の子なんているもんだろうか」と、著者は答えています。彼女たちの世代は、その後、フェミニズムや、性の解放の嵐や、ヒッピー文化の主役となっていくんですね。それを思うと、著者が「ブルーミング」と名づけた、ゆっくりと花が開いていくような時代を持っていたことの重要性を、おぼろげに理解できるような気がします。

大人たちが築きあげた社会や風潮に疑問を持たず、早く大人になって自立したいと願い、ボーイフレンドとは古き良き道徳のもとで付き合い、やがて進学や結婚で散り散りとなる友人たちとの関係に終わりが来る予感はあっても、それを確実な未来としては理解できず、読書をし、アルバイトをし、「セブンティーン」のモデルに憧れていた「普通の女子生徒」の生活は、準備が出来ていようといまいと、唐突に終わりを迎えざるを得ません。

それは、高校を卒業して「外側の世界」に出て行く日。この回想録は、著者が高校を卒業してスミス大学に入学するために、3日間かけた列車の旅の末に東部のマサチューセツにたどり着いたところで終わります。

いくら、母や友達や故郷や過去を恋しがっても、もう元には戻ることができないポイントというものがあるんですね。時代や時期や、国は異なっても、もちろん私も既にそのポイントを通過してしまっています。だからこそ、この回想録の価値が痛いほどわかるのです。

2011/4