りぼんの読書ノート

Yahooブログから移行してきた読書ノートです

数えずの井戸(京極夏彦)

イメージ 1

「四谷会談」からの『嗤う伊右衛門』、「復讐奇談安積沼」からの覘き小平次に続く、古典怪談を題材にしたシリーズ第3作は「番町皿屋敷」でした。人口に膾炙している「皿屋敷怪談」のさまざまなバージョンを紹介して、それではつじつまが合わないとして退けてから、「真実」に迫るという冒頭から、『百物語』の又市と徳次郎が事件を振り返る終章までが、一気の展開。

講談でお菊を手打ちにした「青山播磨守主膳」は、本書では旗本の「青山播磨守」と彼の悪友で部屋住みの「遠山主膳」の2人の人物として描かれます。常に自分の中にある欠如感を拭い去れずに「足りないものを数えてしまう」播磨守と、身をさいなむ欠如感に対して「破壊してしまえば数える必要もない」とする主膳とが、表裏一体の人物として登場するのです。2人が対峙して一体となったときに生まれるものは、狂気にほかなりません。

彼らと対照的な人物が、「数えることを放棄している」かのようなお菊です。播磨守がお菊に惹かれたのは、親の代からの因縁がなくても自然なことだったのかもしれません。でも、もちろんこの物語がハッピーエンドになるわけはないのです。

欲しいものを数えて、全てを手に入れないと気がすまない大久保家令嬢の吉羅や、褒められることを数えて、人目を気にするタイプの青山家側用人の柴田十太夫や、しょせん自分の浅知恵の範囲でしか物事を数えられない、青山家の腰元のお仙や、数そのものを知らずに境遇に不満を抱くことのない、お菊の幼馴染みの三平など、どちらかというと凡人である者たちが、図らずも織り成してしまった「運命の糸」に、青山播磨も、主膳も、お菊も捉えられてしまったかのようです。

青山家の敷地が千姫御殿の跡地とか、青山播磨守の父親が火付盗賊改であったとか、食事の中に針が混じっていたとか、お菊が松の木にくくりあげられるとか、「本典」とも言える講談の筋に加えて、さまざまなバージョンのエピソードまでも見事に織り込んでの構成はお見事。

こんな本を読むと「数えること」の意味を意識してしまいますね。「数えるから、足りなくなる」のですから・・。

2010/8