りぼんの読書ノート

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ヴェネツィアの宿(須賀敦子)

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ミラノ 霧の風景トリエステの坂道に続く須賀さんの3作目の著作は、自伝的な色彩が濃いものでした。ヴェネツィアの宿に泊まった夜。通りを超えてフェニーチェ劇場から流れてくるアリアに身を委ねながら、著者の思いは過去に向かいます。

ヴェネツィアから連想されるオリエント急行。戦前オリエント急行に乗って欧州を「外遊」した思い出を生涯大切にしていた父親に対する愛憎を中心にして、家族や知人たちとの関わりの中で揺れ動いた自らの心の軌跡をたどっていくんですね。

少女時代に訪れた伯母の家の印象、学生時代にふと見てしまった父の愛人。ゴシック建築のように堅固で緻密なカトリック世界の中で、孤独と焦燥感とに押し潰されそうになった留学時代の思い出。その当時の友人との再会。夫ペッピーノの死・・。

記憶がふっと彷徨うように、さまざまな出来事が年代を超えて綴られますが、父の危篤の報せを受けて、父が望んだオリエント急行カップをたずさえて急ぎ帰国する終章の直前に、「アスフォデロの野」のエピソードが置かれているのは偶然ではありません。

「アスフォデロ」とは、ギリシャ神話でアキレスが去っていく死者の国の野に敷き詰められていた「忘却の草」のこと。愛憎を超え全てを忘却のかなたに沈めて消えていくかのような父親への印象は、妙に東洋的でもあります。晩年の須賀さんがたどり着いた境地であるかのようにも思えます。

2009/10