りぼんの読書ノート

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ねじまき鳥クロニクル(村上春樹)

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会社を辞めて専業主夫状態にある30歳の「僕」と、編集者として働く妻「クミコ」の生活のバランスが猫の失跡をきっかけにして狂いはじめ、ついに妻が失踪してしまう。

妻は何か邪悪なものに汚されてしまって、そこから脱出できないでいるようなのですが、妻は「僕」に対して救いを求めているのか、自分をあきらめるようにとのメッセージを送っているのか、それすらわからない中で「僕」は動き始めます。

本書の第1稿から削られた部分を基に書かれた前作国境の南、太陽の西のラストで、妻が主人公に「今度は私があなたを傷つけるかもしれない」としながら、「でもとにかく私はあなたのことが好きよ。それだけのことなの」と伝える場面がありますが、確かなことは「それだけ」しかない地点からの再出発・・などといってしまうと平板に聞こえるかもしれませんね。

しかし本書が凡百の小説と一線を画しているのは、主人公が「闇なるもの」の正体を追い求めていく課程にあるのです。主人公が出会うさまざまな登場人物たち(加納マルタ・クレタ姉妹、笠原メイ、間宮老人、赤坂ナツメグ・シナモン母子ら)による、それぞれ脈絡のないようにも思える物語群は、次第に「ある形」をとってきます。まるで「羊男」が「いるかホテル」の失われた一室からいろいろなものを繋ぎ合わせようとした成果でもあるかのように。

主人公も、ねじまき鳥の声を聞き、枯れた井戸の底に潜り、ノモンハンやシベリアを抜け、バット男を追い、夢に登場するホテルの一室で「闇なるもの」と対決するに至ります。まるで、巧みにステップを踏んで踊り続けたかのように。

では本書の中で、「綿谷昇」に象徴されている「闇なるもの」とはいったい何なのか。そもそも「ねじまき鳥」とはいったい何を意味しているのか。もちろん、読み手ごとに答えは違うのでしょう。ただ、羊をめぐる冒険の「羊なるもの」や、1Q84の「リトル・ピープル」が、決して「悪」であるだけの存在とされてはいないことと比べて、本書の「闇なるもの」の「絶対的な邪悪さ」は際立っています。戦争に代表される「大きな暴力」の根源を、そこに求めようとしたことと無縁ではないように思えるのですが・・。

2009/10再読