りぼんの読書ノート

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日本語が亡びるとき(水村美苗)

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アメリカのアイオワ大学に各国から集まった作家達の交流を通じて、「人はなんと色々な所であらゆる言葉で書いているのだろう」と感嘆した著者が、言語的なグローバリズムの風潮の中で、日本語の行く末に警鐘を鳴らした本です。

言語は平等ではありません。世界中で使われている、グローバル・スタンダードとしての「普遍語」を最上位として、ある特定の地域の生活レベルで日常的に用いられる「現地語」を下位もののとすると、国民国家の成立期に国家との相互作用の中で標準化して作られたものである「現地語」はその中間。

もちろん、現代においては英語が唯一の「普遍語」となって、かつてラテン語や中国語やアラビア語やフランス語が占めていた位置を奪っただけでなく、グローバリゼーションやインターネットによってその傾向は強まっており、その座はゆらぎそうにありません。

この不平等さは、その言語が通じる範囲の広さや一方通行性に現れているだけではなく、最先端の科学・文化が「普遍語」で語られること。それが文学の世界でも同様なのは、非英語圏ノーベル文学賞受賞者の数の少なさを見れば歴然・・と、著者は語ります。

19世紀という極めて早い時点で、欧米列強に続いて「国語」を成立させ、四迷、漱石、鴎外、鏡花らの「近代国民文学」をいち早く生み出した日本語は、高等教育も行なえる水準に達した素晴らしい言語なのですが(自国語によって高等教育をなしえない国のなんと多いこと!)、「圧倒的な普遍語」の域に達した英語の前では、格差は開くばかりなのでしょう。

やがて最先端の科学・文化が英語のみで語られるようになると、「国語」レベルの日本語は亡びに向かうのではないか・・というのが著者の悲痛な叫びです。「現地語」としての日本語は残っても、文化や文学を失った言葉にどれほどの価値があるというのか。「唯一の普遍語である英語」と「その他の現地語」という二極化構造への懸念は、英語以外の全ての「国語」に共通する問題ですね。英語以外の欧州言語ですら、その例外ではありません。

ここまでは、極めてシャープな論旨であって、頷く人も多いのではないでしょうか。ただ、憂国の情感たっぷりに語られる「対策」の部分に来ると、賛否両論あるようです。

著者は国民全員を英語バイリンガルに仕立てようとする風潮を退け、「国語教育」の充実によって「日本語」の底辺を豊かに広げる一方で、それを「普遍語」の世界に繋ぐ「少数精鋭の二重言語者」の育成を提唱しているようなのですが、「少数精鋭」などということが果たして成立するのかどうか、悩ましいところです。「草サッカー」なくして「Jリーグ」はなく、「欧州サッカー界」への進出もありえないのではないかとも思えますので。

ともあれ、普段は意識しない「言語の問題」に関して刺激を受けることは間違いありません。『三四郎』を、「国語としての日本語成立」とのテキストの中で読み返してみたくなりました。

2009/3