りぼんの読書ノート

Yahooブログから移行してきた読書ノートです

喪失の響き(キラン・デサイ)

イメージ 1

インド北東部、ネパールとブータンに挟まれた地帯の地図をみると、わけがわからなくなってきます。大きな流れとしては、もともとチベット系の王国であった所にネパール人が流入して多数派となった結果、現在はインドの一部になっているのですが、中国も領土権を主張していて、長年の間、国境が定まっていませんでした。もちろん、戦前はイギリスの保護領

典型的な多民族・多文化・多宗教地帯であり、1986年には、南部のダージリンやカリンポンでネパール系のゴルカ国民解放戦線によって、インドからの分離を求める暴動も起きているのですが、本書を読んで調べてみるまで、そのあたりの事情を全く知りませんでした。

本書の時代背景と主な舞台はその辺り。
ヒマラヤのカンチェンジュンガを眺める風光明媚な地方に引退した、偏屈な老判事は、孤児となった孫娘サイを引き取って育てています。サイは、家庭教師のネパール系青年ギヤンと恋仲となりますが、ゴルカ独立運動に巻き込まれたギヤンは、老判事が猟銃を持っていることを仲間に話してしまいます。ギヤンの家を訪ねたサイは泥のような貧しさに言葉を失い、貧しさを恥じてサラを追い返すギヤン。そんな中で、蜂起したゴルカ国民解放戦線が街の実権を握り始めます。

一方、老判事の料理人は、渡米してニューヨークに住んでいる息子のビジュが自慢の種なのですが、ビジュは、永住権も取れない不法滞在労働者として、レストランの下働き仕事を転々としています。この2つの物語に挟まって語られるのは、イギリスに留学していた老判事の青年時代のエピソード。彼にもまた、イギリスとインドのギャップの間で、妻を不幸にしてしまった過去があったのです。

インド、ニューヨーク、イギリスの各地で読者が見出すものは、「混沌とした世界」です。「インドのネパール人に自治権を」と叫ぶ少年たちは、著作権無視の中国製Tシャツと、ハリウッド発の「世界共通のゲリラファッション」に身を包んだカンフー・キッズであり、イギリスで学んだ判事は、「イギリス人からもインド人からも嫌われる人種」に成り果て、ニューヨークでビジュが出会うのは正体不明のザンジバル人サイードや、リトアニア人のクリシュナ教徒などのわけのわからない人々。

まるで「間違い探し」のようなおかしな世界なのですが、これが「グローバル化」の現実。何らかの形で西洋文化に触れて、屈折した喪失感を抱いた人々は、その一部を取り込んで、「正しく伝統的な」世界に適合できないものを抱え込んでしまうのでしょう。老判事の過去のエピソードは、それが以前からあったものと伝えているにすぎません。とはいえ、コミカルな著者の語り口は、それを悲劇的なものとは捉えていないようです。この矛盾だらけで混沌とした世界は、依然として愛すべきものなのでしょうから・・。

14歳でインドからアメリカに移住した著者による本書は、シティ・オブ・タイニー・ライツ(パトリック・ニート)ホワイト・ティース(ゼイディ・スミス)などと同じ香りのする「移民の文学」です。ブッカー賞受賞もうなずけます。

2008/5