『もう死んでいる十二人の女たちと』で、過去の光州事件や未来に起こり得る原発事故に対する静かな批判を抒情的に綴った著者が、釜山アメリカ文化院放火事件を題材として紡ぎあげた作品です。放火事件が起こったのは1982年のこと。2年前の光州事件で軍事独裁政権による武力弾圧をアメリカが容認したことに対する異議申し立てとして起きた事件です。実行犯はカトリック教会との関係が深い5人の大学生でした。
本書では時代を超えた5人の女性たちの繋がりが描かれていきます。現代の物語ではソウルに住む作家「私」が釜山に通いながら放火事件当時のことを知るチェ・ミョンハンという女性と交流を深めていきます。過去の物語は、中学生のスミとジョンスンが、スミの若い叔母に当たる「ユンミ姉さん」とぎこちないつきあいを続けていきます。「ユンミ姉さん」は恩赦によって釈放された放火事件の実行犯のひとりでした。
特別の事件が起こるわけではありません。「私」は釜山の街を歩きまわりながら、過去と未来、過去において未来であった現在について思索を深めていきます。過去に事件に関わった人たちはどのような未来を思い描いていたのか。未来に来たるべきものについて考えた人たちは、すでに未来を生きていたのではないか。未来とは必ずしも次に起こることではなく、過去とは必ずしも過ぎ去った時間ではなく、現在とは過去と未来の間で粘り強く続ける「練習」の時間なのではないか。
それらの問いは必然的に読者にも跳ね返ってきます。私たちは今現在、どんな未来を思い描いて、その未来を手繰り寄せるための「練習」を続けているのでしょう。読者を選ぶ作家なのでしょうが、ふとマイケル・オンダーチェのことを思い出しました。『イギリス人の患者』でブレークした作家ですが、それ以外にも多くの優れた作品を書いています。
2024/5