昨年のノーベル文学賞作家による、自伝的小説です。ニューヨークに3年住んだ以外は、ずっとイスタンブールで暮らし続けて、この街の全てを知った上で、この街を愛し続けている著者が、自らの人格形成に大きく影響を与えたイスタンブールの「憂愁」を描ききります。
この本のキーワードは「ヒュズン」という言葉でしょう。「憂愁」と訳されるこの言葉の本来の意味は、信仰者が、アラーに対して十分に近づけない時に感じる憂いのことであり、ヒュズンすら感じられない状態の方が苦しみははるかに深いとされるのです。
オスマン・トルコの統治がピークを超えて以来150年もの間、長い衰退の過程にあるというイスタンブールの街。そこでは、あらゆる所にヒュズンが感じられるというのです。崩れかけたビル、廃墟となった宮殿、裏道の野良犬、西洋にあこがれ、西洋に遠く及ばないことを嘆きながら、同じことを西洋人から指摘されると憤慨する国民感情。これら全てが、街のいたるところに雪のように降り積もっているヒュズンの現れだというのです。
5歳の時に覚えた自分への違和感からはじまる本書は、母の愛情、両親の不和、偉大で風変わりな祖母、兄との衝突と友情といった家族の中の物語から、性に目覚め、女学生と恋に落ち、画家を目指した思春期時代を経て、22歳の時の「作家になるよ、ぼくは」との断固たる決意で閉じられます。
その合い間合い間に、イスタンブールを定義しようとする様々な試みが挿入され、最後には、自分自身にとってのイスタンブールが語られます。「不幸せとは自分や自分の町を嫌悪することである」と語るパムクは、もちろん不幸ではありません。
著者の本は、西洋画と出会った細密画師の苦悩を描いた『わたしの名は紅』と、原理主義と改革派の間を揺れ動く感情を描いた『雪』の2冊しか読んでいませんが、どちらにも、故郷と故国に対する深い愛情を感じたものでした。
厚い本ですが、夢中になって夜遅くまで、1日で読んでしまいました。今年の最高の一冊かもしれません。
2007/11