りぼんの読書ノート

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三国志 外伝(宮城谷昌光)

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大作『三国志』を著した著者は、「歴史の本道から遠ざかっていった者たちを書ききれなかったことに満足できなかった」と述べています。「宮城谷三国志」は未読ですが、「吉川三国志」や「北方三国志」は読んでいるので、聞き覚えがある人物たちが次々に登場。こういう「外伝」が、三国志世界の奥行きを広げてくれるのですね。

「王粲」:敗残の劉備を賓客として遇した荊州刺史・劉表の死後に、後継者の劉琮を説得して曹操に帰服させた人物です。曹操に徹底抗戦した劉備の立場からは悪役ですが、戦を避けえた庶民や魏で重用された重臣にとっては合理的な判断を下した恩人だったはず。

韓遂」:後漢末期の混乱期に西方の涼州で独立軍閥を打ち立てたものの、後に曹操に破られて斃れた人物です。通常は野心的な悪役として描かれますが、漢民族の下に置かれていた羌族の輿望を担った英雄だったのかもしれません。

「許靖」:何進董卓、孔伷、陳禕、王朗、士燮、劉章と次々と主君を失いながら、最後には劉備のもとで太子劉禅の太傅を任された人物です。運が悪いというより、どこででも重用される学識と人格を有する人物だったわけです。

公孫度」:遼東太守から遼東王として自立した人物です。著者は後漢の後は「三国時代」でなく「四国時代」というほうが正しいかもしれないと述べています。

「蔡琰」:儒学者・蔡邕の娘で才女の誉れ高い女流詩人であったものの、過酷な運命にさらされます。董卓残党が起こした乱の際に匈奴に拉致され12年もの間、左賢王の側室として留め置かれたのです。後に父・蔡邕と交友のあった曹操によって帰国が叶いますが、匈奴に残した実子との別離の哀歌も知られているとのkとです。

「鄭玄」:小役人出身ながら大儒学者となり、2度も大将軍から(何進袁紹)から招聘されています。学問的な功績が大きいのですが、「三国志演義」にも登場して劉備の紹介状を書くという役割を与えられるほど世に知られた人物だったわけです。

太史慈」:劉繇の客将として孫策とも戦った後、孫策に帰順して草創期の呉の礎を築いた人物です。赤壁の戦いの前に死去したために史書に大きく名を残していないのが惜しまれる人物とのことです。

陳寿」:三国志」の著者は、蜀軍が大敗した街亭の戦いの際に馬謖の軍師を務めた責任で有罪となった父親のものに生まれたとのこと。彼自身何度も栄達の道を閉ざされるのですが、「真の歴史家は世の災禍にさらされる」ことは歴史が証明しています。

楊彪」:董卓のもとで司空・司徒を務め、天子を守る立場を取り続けた人物ですね。郭汜や曹操に殺害されそうになったものの生き延びて世に潜み、後に曹丕の招聘を断ったとのこと。生涯。徳の高い人物であり続けたわけです。

こう見てみると、歴史の本道に居続けたかどうかは紙一重ですね。むしろ歴史の隘路に埋もれた人物のほうが幸福だったケースも多いようです。

2019/6