りぼんの読書ノート

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ぼくの兄の場合(ウーヴェ・ティム)

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1940年にハンブルクで生まれた著者の自伝的作品は、家族の思い出を綴りながら、ドイツにおけるナチズムの記憶についても、大きな問題意識を投げかけました。

著者の16歳年上のカールは、ヒトラーユーゲントの教育に染まった世代の一員です。武装親衛隊に入隊してロシア侵攻に参加し、戦闘中に両足を切断する重傷を負ったことを手紙で知らせた後に、ウクライナ野戦病院で亡くなりました。しかしながら19歳の若さで世を去った兄の亡霊は、その後も長く家族に中に留まり続けたのです。

両大戦で戦った父親は、戦後にはじめた毛皮加工業が傾いていく中で、理想化された兄の早逝を嘆き続けます。家業を拒んでアメリカや左翼の文化にかぶれた弟は、「カールさえ生きていれば」との言葉を聞かされ続けるのです。一方の母親は、息子は戦争犯罪に加担しなかったと信じながら、戦地から届いた僅かな遺品を半世紀に渡って保管し続けます。そして男兄弟たちよりも愛されていなかったことがわかっていた姉は、それでも死ぬまで両親の愛を信じようとしていたのです。

著者は兄が遺した数ページの日記を何度も読み返します。「残酷な事柄について記録するのは意味がない」と記した兄は、残虐行為に手を染めていなかったのか。残虐行為が行われていたことに気付いてもいなかったのか。そして自問するのです。両親の兄への思いは、「我々は何も知らなかった」を合言葉とする世代ぐるみの責任回避と結びついていないのかと。そして、自分が兄の立場に居たらどのようにふるまっただろうかと。もちろん本当に問われているのは、著者自身や読者たちの今現在の行動なのです。

2018/10