りぼんの読書ノート

Yahooブログから移行してきた読書ノートです

あるいは修羅の十億年(古川日出男)

イメージ 1

タイトルはもちろん宮沢賢治春と修羅』の「序」に記された言葉です。「ひとつの青い照明」にすぎない「わたくしといふ現象」が虚無性と永遠性を併せ持つという文脈の中で、本書は理解されるべきものなのでしょう。

2026年の日本。2カ所の原発事故によって生まれた広大な汚染地域は「島」として隔離される一方で、そこを「森」と呼んで棲みつく人たちも生まれています。「島」から東京にやってきた天才騎手の喜多村ヤソウと、彼の従姉で「森」から離れずに物語を執筆する喜多村サイコが共有する概念は「キノコ」です。それは森を浄化すると同時に、胞子とともに毒素を撒き散らす存在でもあるのです。

ヤソウが東京で出会ったのは、体内に埋め込まれた人工心臓を「原子力性」とみなして自身のロボット化を望む少女・谷崎ウラン。彼女は、「新生代沖積世」の巨大なクジラの屍から東京が生まれたという「神話」を紡ぎ出していました。他にも、白馬の産地であるプロヴァンスのカマルグで暮らすサイコの母・ルカ、ウランの創作神話をアート化しようとするメキシコ人芸術家・ガヴィ、疑似家族とともに暮らす少年・ココピオ、「森」で牧場を経営するカウボーイらが3人の若者たちと関係を深めていく中で、物語は混沌としていきます。まるで「子実体」が拡散させる「胞子」のように。

物語は、東京オリンピック後にスラム化した鷺ノ宮が、あたかも「森」の飛び地になるかのように進展していきます。そして「あらゆる外を内にしてしまう個」とはどういうことなのでしょう。「森」は世界中に拡散していくのでしょうか。まるでナウシカで描かれた未来世界のように。

拡散された物語が、ひとつの結末に収斂していくことはありません。未来を待ち受けているのは「修羅の十億年」なのか、「虚無」なのか。ラストシーン、カマルグで馬を駆るルカの姿が、「ターミネーター」で「嵐が来る」ことを覚悟してジープを走らせるサラのように思えてきます。

2017/8