りぼんの読書ノート

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カーテン(ミラン・クンデラ)

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ミラン・クンデラの「小説論」ですが、これはなかなか手厳しい。世界の予備解釈である「カーテン」を引き裂いて、人間の本質と不可分の喜劇性や未知の実存や謎を明るみに出すのが小説家のモラルだというのです。つまり、人生という散文を欺瞞的に覆い隠している宗教やイデオロギーや伝統などのまことしやかな世界解釈を覆すものだけに価値を認めており、反復や単なる再生産はいかに巧緻であっても芸術ではないというのです。

かつて「カーテン」を引き裂いた小説家して、セルバンテスラブレーシェークスピアフロベールトルストイカフカ、ムジル、ジョイス、ガルシア=マルケスらの名前が挙げられます。日本人としては紫式部なども入れて欲しいものですが、日本語で書かれた小説を「世界文学」の中に位置づけることの、何と難しいことか。

やはり「世界文学」となるには、メジャーな言語で書かれることが必要なのでしょう。もちろんカフカは自らの文化を守ることに固執する「小国の地方主義」を超越した作家ですが、もしドイツ語ではなくチェコ語で作品を書いていたら埋もれたままだったのかもしれません。その一方で、フランス人がユゴー人道主義やドゴールの決断を好み、真の芸術家を評価していないことは「大国の地方主義」の悪しき実例とされるのです。

それら両方の「地方主義」を後生大事に守り続けるアカデミズムも批判されざるをえません。そもそも著者に対して「東欧からの亡命者」とか「反体制派作家」とかのレッテルを貼ったり、スラブ人としてロシアの文豪と一緒に括って愕然とさせたものこそ、まぎれもない「アカデミズム」だったのですから。

そして反復を認めない「芸術の歴史」と「芸術の不滅性」が語られます。これは著者が得意とするテーマですね。7部からなる本書の最後の表題は「永遠」であり、それは出来事の歴史のような無価値の反復、すなわち芸術のみが「永遠性」を有するというペシミスティックな予言となっています。「カーテン」を引き裂く行為を、それが「キッチュ」の群れに覆われてしまう前に見出すことなど凡人には不可能ということはわかりますが・・。

2013/12