りぼんの読書ノート

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興亡の世界史16.大英帝国という経験(青柳正規編/井野瀬久美惠著)

大英帝国時代の前史であった『東インド会社とアジアの海』に続く本書は、現在のイギリスにも色濃く影を落とす「大英帝国というアイデンティティ」を綴っていきます。女王、紅茶、万博、大英博物館ボーイスカウト奴隷貿易廃止運動、レディトラベラーなど。それらはなぜ大英帝国で生まれ、大英帝国の全盛期を支え、大英帝国衰退後の現代にも多大な影響を振るい続けているのでしょう。

 

アイルランド統治体験は世界帝国となる前の実験場でした。1169年のノルマン人侵攻に始まるアイルランド支配は、12世紀から17世紀にかけての複雑な支配と搾取の体系を経て、1689年のボイン川の戦いを契機とした英国併合によって完成されます。イングランドの過酷な統治はアイルランド経済を停滞させ、1840年代のジャガイモ飢饉では飢餓と移民によって人口が半減するほどのダメージを与えます。イギリスに併合された後に一定の繁栄を享受しえたスコットランドと対照的ですが、土地収奪と搾取による統治の失敗例なのでしょう。これ以降、議会と英国国教会による統治が基本政策となっていきます。

 

その統治政策を転換させたのは、フランスに対する7年戦争に勝利して北米大陸の覇権を握った直後に起こったアメリカ喪失でした。著者はアメリカ独立は市民革命であったと述べています。イングランドの直接支配や重税を忌避し、市民の権利と自由を謳いあげたアメリカ独立宣言が、大英帝国の「間接統治方式」への転換を促すことになります。そうして生まれたのが、カナダ、オセアニア、インド、アフリカ、南米、中国、アジアへと広がる「自由貿易の帝国」であり、その過程で、冒頭に列挙した「大英帝国というアイデンティティ」を象徴する諸概念も育まれていったわけです。

 

しかし繁栄した帝国もやがては衰退せざるをえません。直接的には20世紀の2度の大戦が大英帝国を崩壊させるのですが、それ以前の南アフリカ戦争や中東政策の混乱は「間接統治方式の限界」を象徴する事件だったのでしょう。前世紀に機能した統治政策は、20世紀に台頭した民族主義に対応できなかっただけです。大英帝国の跡を継いだアメリカ世界帝国の時代も揺らぎ始めた中で、大英帝国の名残である「英連邦王国および王室属領・海外領土」は、在位70年を超えた大女王を失った後に、どのように変貌していくのでしょうか。

 

余談ながら映画「風と共に去りぬ」の原作は、ボイン川の敗戦の民族的記憶をとどめてアメリカ南部に渡ったアイルランド移民の物語から始まるとのこと。プロテスタント北軍に蹂躙された大地に立って再起を誓うスカーレット・オハラの姿は、イングランドに併合されたアイルランド人の嘆きに重なっているのです。

2023/1