りぼんの読書ノート

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ザルツブルクの小枝(大岡昇平)

太平洋戦争時にフィリピンで俘虜となった体験を基にした『俘虜記』や『野火』で文学賞を受賞した著者が、1953年にロックフェラー財団奨学金を得て1年間欧米を見聞した際の旅行記です。この時著者は44歳。俘虜生活で身に着けた英語や、京都大学で学んだフランス語は役に立ったとはいえ、かなりの体当たり。もっとも海外旅行者が珍しかった時代のことであり、行く先々で現地の日系人や、先に遊学中であった福田恒存らの世話になったりもしています。むしろ日系人の過剰なケアにはうんざりさせられることも多かった模様。

 

当時と現代の海外体験記を比較することに意味はありません。アメリカではハワイ、サンフランシスコ、グランド・キャニオン、サンタ・フェ、ニューオリンズ、ニューヨーク、ピッツバーグなどの都市。ヨーロッパではフランス、イギリス、オーストリア、イタリア、ギリシャなどの国を周遊していますが、現地事情に関する事前情報などはほとんど皆無。それでも著者の欧米文学、芸術、演劇、歴史に対する造詣の深さが、本書を見事な比較文化論に仕上げています。とりわけサンタフェのロレンス、ニューオリンズスタンダール、ブロードウェイのシェークスピア演劇に対するコメントは秀逸です。

 

タイトルはスタンダールの恋愛論にある「恋愛がその対象を美化させてしまう心理」から採られています。塩坑の塩の結晶で覆われた小枝がダイヤで飾られたように見えるという比喩を用いた「愛の結晶作用」のことですが、この言葉について著者は多くを語ってはいません。ただし、長年憧れて来た欧州諸国を美化しすぎないように自戒の念を込めたものなのでしょう。実際に当時の現地の人々が、過去の文化遺産に対して無知である場合には、「ケンカ大岡」と異名を持つ著者の舌鋒はとりわけ鋭くなっています。

 

アメリカで感じた差別意識について述べた持論や、ヨーロッパ文化に対してアメリカを見下しているようなコメント、さらには劣等感を裏返しにしたように日本文化の優秀さを声高に語る個所などには少々辟易してしまいますが、全体として過去の時代の文化人の教養の高さが感じられる作品です。感覚の古さをもって切り捨ててしまえるものではありません。

 

2022/11