りぼんの読書ノート

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ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし(エステルハージ・ペーテル)

著者は、ハンガリーの名門大貴族エステルナージ家の末裔だそうです。ハプスブルク家に忠誠を近いことで地位と財産を築いたエステルナージ家は数多くの著名人を輩出し、著者の祖父はハンガリーの首相を務めた人物だとのこと。共産主義政権下では差別や迫害を受けた一族であったことを含め、著者の出自や経歴はハンガリーでは「常識」であるわけです。著者の自伝的要素を含む本書は「難解」に思えますが、ハンガリーにおいてはそれほどでもないのでしょう。

 

「ドナウを下って」との副題を持つ本書は、「プロの旅人」である主人公が、ある雇い主の依頼を受けてドナウ川の源流から河口までを旅する物語。ドイツの黒い森に端を発し、中央ヨーロッパを横断して流れ、やがては黒海へと注ぎ込む大河ドナウの流域には数多くの国家、都市、町村があります。ドナウエッシンゲン、ウルム、レーゲンスブルク、パッサウ、デュルンシュタイン、ウィーン、ブダペストベオグラード、ルセ、トゥルチャ、スリナ・・。

 

旅人と雇い主との電報の応酬の中で、話題は過去と現在を自由自在に行き来します。ハイデッガーヒトラー、リチャード獅子心王ウィットゲンシュタインハンガリーをはじめとする各国の小説家たちなどの実在人物を交えて語られるのは、中央ヨーロッパの多様性と複雑な歴史です。とりわけ後半のドナウ下流地域「貧しいほうのヨーロッパ」の歴史は悲惨です。しかも本書の執筆中に「ベルリンの壁崩壊」という歴史的事件が起こったことで、未来の予見まで含まれていくのです。

 

その合間に、幼年時代に「秘密めいた叔父ロベルト」をドナウ川を旅したエピソードが挿入されることで、ストーリー性が出てきます。主人公はロベルトの影を追い、ロベルトの過去の愛人たちと再会。最後にはロベルト自身とも再会して、彼の正体が明らかになります。ドナウの旅は彼自身の源流を探る旅でもあったということなのでしょう。

 

タイトルの「ハーン・ハーン伯爵夫人」とは、19世紀ドイツに実在した女性作家です。ハイネの詩に登場する夫人は隻眼であるものの、「あらゆることを見抜いてしまうまなざし」の持ち主だとのこと。碩学な著者自身の視点を指しているようです。

 

2022/11