りぼんの読書ノート

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喜べ、幸いなる魂よ(佐藤亜紀)

祖国オーストリアともに転落していく双子の物語『バルタザールの遍歴』でデビューした著者は、完全なSFである『天使・雲雀』をはさんで、ヨーロッパ史に埋もれた事件に着目した作品を多く書き綴ってきました。16世紀ドイツの異端審問物語『鏡の影』、ルイ15世治下のパリで暗躍する詐欺師たち『金の仔牛』、フランス革命前夜のゴシップ情報戦『醜聞の伝説』や狼男伝説『モンティニーの狼男爵』、ナポレオン暗殺未遂事件『1809ナポレオン暗殺』、ハプスブルク支配下ポーランドで起こった『吸血鬼』騒動、ロシア革命時に暴徒化した孤児たち『ミノタウロス』、ナチス政権下のジャズ狂の若者『スウィングしなけりゃ意味がない』やハンガリー発の『黄金列車』の迷走など、どれも完成度の高い作品ばかり。本書もそんな一冊です。

 

舞台はフランス革命前夜の18世紀ベルギーのフランドル地方。亜麻を扱う商家で双子の姉として生まれたヤネケは、生まれつき聡明な女性でした。当時最先端の天文学や数学のみならず、医学や生物学、さらには生命が行き着く先にまで、彼女の興味は果てしなかったのです。一家に引き取られた同業者の孤児ヤンと生命の驚異を探求するために「実験」として子供を産み落とすとなると狂気すら感じますが、彼女はいたって大まじめだったのです。生まれた息子は養子に出し、生涯単身を選んだ半聖半俗の女たちが住まう「ベギン会」に移住して、独自の研究を発表し始めます。はじめは双子の弟テオの名義で、彼が事故死した後は家業を継いだヤンの名義で。

 

ヤネケを心から愛していたヤンは苦悶しますが、家のために結婚。やがて年月が経ち、ヤンの一族は栄えて彼は小都市の市長にまでなるのですが、このままならハプスブルクの緩やかな統治のもとで、皆それなりに平和な生涯を送れたはずだったのです。隣国フランスで革命さえ起こらなければ・・。

 

歴史は革命フランス軍に進駐され、後に併合されたフランドル地方が、事実上植民地化されて中央集権的な圧政にさらされたことを教えています。財産の収奪、民衆の徴用、言語や独自教育の剥奪、宗教者への迫害が迫ってきたところで本書は終わります。しかし長い回り道の末に再び結ばれたヤネケとヤンは、学問的な知識と世俗的は知恵を生かして、圧力をかわし続けるのではないかと予感させてくれます。著者はずっと、困難な状況の下での希望を描き続けているのですから。本書の続編を読みたいというのは、ぜいたくな希望でしょうか。

 

2022/7