りぼんの読書ノート

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宰相の象の物語(イヴォ・アンドリッチ)

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ボスニア出身のノーベル賞作家が「自らの小祖国」を舞台として紡ぎあげた短編集です。著者の代表作である長編『ドリナの橋は、オスマントルコ、ロシア、ハプズブルク、ドイツなど周辺諸国の係争地となってきた小国の悲劇を歴史的に綴った作品ですが、本書では民衆の忍従や抵抗が扱われています。

 

「宰相の象の物語」

オスマン帝国の繁栄に翳りが見え始めた1820年代。ボスニアに気まぐれな恐怖政治を布いた宰相がペットとしたアフリカの仔象も、暴君の化身として憎まれてしまいます。無邪気な仔象が陰湿な嫌がらせを受けるのは可哀そうですが、抑圧された人々の抵抗はさまざまな形をとらざるを得ません。やがて皇帝の寵を失った宰相が死を賜ったとき、仔象も毒殺されてしまうのでした。1947年に発表された本書において、宰相の末路はヒトラーの運命と重なっているようです。おそらく仔象になぞらえられた人物や組織もあるのでしょう。

 

シナンの僧院に死す」

イスタンブールで名声を得たボスニア出身の高僧が、晩年に故郷に戻ってきたものの急死。臨終の数分間に彼の脳裏をよぎったものは、修道によって克服していたはずのトラウマでした。生涯童貞であった聖人が抱いていた女性への恐怖感は、ムスリムというより東方正教に由来するように思われますが、ボスニア人の心情を象徴しているのかもしれません。

 

「絨毯」

ナチスドイツの傀儡国家によって家を接収されそうになっている老婆の記憶が、市庁舎で見た絨毯によって呼び覚まされます。彼女が子供の頃に見た絨毯とは、サライェヴォがハプスブルク軍に占領された時にムスリムの家から略奪されたものでした。彼女の曾祖母は毅然とした態度で兵士を追い返したのですが・・。

 

「アニカの時代」

セルビア正教の司祭が発狂したことで、彼の曾祖父の時代に起こった「アニカの事件」が想起されます。それは美貌の若い女性アニカが市長も司祭も虜にし、さらには「男たちのための家」を開くことで街全体を支配した時代のことでした。アニカはなぜ身を滅ぼしたのでしょう。男も女も、権力者も市井の者も「悪と不幸」からは逃れられないという苦渋に満ちた運命論が、大国に翻弄された小国に蔓延した時代があったようです。

 

2022/5