りぼんの読書ノート

Yahooブログから移行してきた読書ノートです

眠りの航路(呉明益 ウー・ミンイー)

f:id:wakiabc:20220315120832j:plain

先にエクスリブリスから出版された『神秘列車』は、かつて台北にあったオールドスタイルの巨大ショッピングセンター街「中華商場」で育った著者が少年時代の思い出を幻想的に描いた作品でした。それに続く本書は、やはり著者の分身と思しき主人公が、生涯寡黙だった父親が語ることのなかった過去を追体験していく物語。

 

台北フリーライターとして暮らしている主人公は、不思議な睡眠障害に陥って日本の医者を紹介されます。彼の治療を兼ねた日本への小旅行は、太平洋戦争末期に日本に渡り、少年工として日本軍の戦闘機製造工場で働いていた父親の足跡をたどります。三郎という日本名を持つ父親の過去は、戦後の台湾では長らく語られることなく歴史の裏側に隠されていたものでした。

 

日本語教育を受け、天皇陛下の赤子となって邪悪な米国を倒すことを理想としていた少年たちは、台湾にとっての「失われた世代」です。一枚の紙きれによって中華民国に返還された後も「日本紳士・三郎」として、「中華商場」に電気製品の修理店を開き、結婚し子供を育てあげた父親の後半生は、深い喪失感とともに生きた「余生」だったのかもしれません。本書にはもうひとり、日本の敗戦によって深い喪失感を抱いた人物が登場します。三郎の友人となった平岡君は、同時期に同じ海軍工廠で働いていた三島由紀夫ですね。読者は三郎と三島の「余生」を比較しながら、本書を読むことになるのです。

 

本書を翻訳した倉本知明氏は「あとがき」で、「植民地を忘却することで戦後再出発した日本社会は、各国の三郎たちに対して誠実に向き合ってきたのだろうか」と問いかけています。そのような視点から本書を読むことができるのは日本人だけであることを加味すると、本書の味わいは一層深いものになるはずです。

 

2022/4