りぼんの読書ノート

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朱夏(宮尾登美子)

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土佐の高知の花街で生まれ育った著者は、高等女学校を卒業して代用教員となった翌年に17歳で同僚の教師と結婚。ここまでの生涯は、綾子という主人公の女性に託されて『櫂』と『春燈』で描かれています。そして「人間一人の一生にも匹敵する長さ」と思われた1年半の出来事が本書で綴られます。

 

土佐から入植した開拓団の子弟教育にあたる夫とともに、生後間もない娘を連れた綾子が満州に渡ったのは1944年3月のことでした。まだお嬢様気分も抜けていない18歳の綾子にとっては、夫の実家である農村の息苦しい生活から逃げ出す意味合いもあったようです。しかし当時は既に日本軍の配色は濃く、満州においても物資は不足し治安も悪化。満州の厳しい風土と相まって開拓団や教師たちの苦労は並大抵のものではありません。そして数か月後に敗戦。ソ連軍の侵攻と満州民の造反の中で満州国は崩壊し、集結地での拘留生活を経た後に1946年9月に帰国を果たします。

 

明日をも知れない極限状態の中で、人々は裏切り、騙し合い、身を落としていきます。綾子ですら他人の持ち物に手を出したり、幼い娘を売るという妄想すら頭をよぎったりするのです。その一方で綾子は、日本人にとっては希望であった満州の開拓が、中国人にとっては侵略と略奪にすぎなかったことに気付かされます。個人的な体験が、歴史的な広がりの中で位置づけられるわけですが、もちろん著者はそんなことを声高に叫んだりはしません。そのあたりは綾子が人間的に強くなっていく過程で自然に描かれるわけです。

 

著者が作家を志した原点である本書は、帰還から34年後に書き始められました。この体験を文学的に表現できるようになるまで、それだけの年月を要したのでしょうが、それでもなお「書いていて嫌であった」とのこと。文字通り、壮絶な作品です。

 

2021/10