明治初期に渡仏し、パリを拠点として日本美術品を売りさばいたことでジャポニズムの機運を高めた画商・林忠正が、ゴッホと出会っていたのではないかという想定のもとに書かれた作品です。当時ようやく売れ始めたばかりの印象派の絵画をいち早く評価してマネとの交流もあった林ですが、ゴッホの作品を買った形跡はありません。ゴッホの作品に描かれた数々の浮世絵を見ると、ゴッホの理解者タンギーやゴッホの弟テオとは画商仲間としての関係もあったでしょうから、実際はゴッホを評価していなかった可能性も高いように思えます。当時の売れ筋はモネ、ドガ、ルノアールなどの心温まる絵画であり、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌなど苦悩を前面に押し出したポスト印象派の画家たちは、まだ広く理解されてはいなかったのです。
そのギャップを埋めるために著者は、林の助手である加納重吉という人物を創り出しました。内心ではゴッホを評価しており、ゴーギャンとの南仏行をアドバイスしたりしながらも、計算高い画商としては動けなかった林に代わって、ゴッホと弟のテオに深く寄り添ったのが重吉という設定です。しかし彼もまた、苦悩するゴッホ兄弟を救うことはできませんでした。
著者は、かねてよりゴッホの小説を書きたかったものの、彼の熱い生涯に気後れしていたそうです。ゴッホを直接描くのではなく、林と重吉という2人の日本人画商の視点を用いることで、孤高の天才画家の生涯が浮かび上がるようにしたのでしょう。タイトルの「たゆたえども沈まず」とは、高波が荒れ狂っても決して沈まずに嵐が去るのを待つ舟のように、したたかでしなやかな生き方をゴッホに期待した林の言葉です。そのアドバイスが生かされることはなかったのですが・・。
2021/7