りぼんの読書ノート

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愛なき世界(三浦しをん)

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三浦さんは「お仕事小説」の第一人者でもあったのですね。もちろん巷に溢れている成功物語とは一味違って、仕事を通して深遠な世界を垣間見せてくれる作品が多いのです。辞書編集者たちの無限の精進を描いた『舟を編む』も、文楽の世界を描いた『仏果を得ず』も、自然と林業の関りを描いた『神去なあなあ夜話』も、そうでした。本書の主人公は植物学者の卵ですが、やはり気が遠くなるほど奥が深いのです。

 

T大赤門近くの古い洋食屋で料理人見習いをしている藤丸陽太が恋した相手は、T大理学部の植物学研究室の院生である本村紗英でした。しかし彼女が恋している相手は、植物だったのです。しかも彼女は、植物が葉を大きくする秘密を探るために、遺伝子が解明されていてモデル植物となっているシロイヌナズナを相手にして、四重変異体を作ろうと地道な努力を重ねている最中。研究に没頭するあまりに、恋愛に割く時間などないのです。

 

では藤丸は、なぜそんなリケジョに恋してしまったのでしょう。料理制作過程は実験工程に似ているとか、食材の野菜も植物であるとかも理由のひとつなのでしょうが、なんといっても彼自身もひとつの道を究めたいという共通点を持っている人物だからなのでしょう。彼は出前のついでに本村から覗かせてもらった顕微鏡の中の、青く着色された植物の細胞を見て、「銀河だ、満天の星だ」と感激するのです。そういえば『舟を編む』の辞書編集者が恋した相手は板前見習いの女性でした。

 

実験で凡ミスをした本村はセレンディピティ的な挽回を果たせそうですが、それにしたってほんの小さな一歩です。しかも将来的に研究者として身を立てる保証など、どこにもないのです。それでも、本来の優しさを表面に出すことなく死神のような黒服を纏い続ける松田教授の研究室の多彩なメンバーの中で、地道な研究に情熱を燃やすリケジョの姿は魅力的です。藤丸クンもそのうち一人前になって、植物よりも魅力ある存在になれるのかもしれません。

 

2021/2