りぼんの読書ノート

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新しい人生(オルハン・パムク)

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トルコ初のノーベル文学賞受賞者である著者が1994年に発表した第5長編である本書は、トルコでは社会現象となったほど爆発的に売れたとのこと。ちょっと初期の村上春樹作品に似た雰囲気も感じますが、本書は決してわかりやすい作品ではありません。タイトルの「新しい人生」という言葉ですら、ラスト一行まで意味不明ですし、そこまで読んでもなお「著者の意図は違うのではないか」と自問したくなるほどなのです。

 

物語は、平凡な大学生が巡り合った1冊の本によって「全人生が変わってしまった」というほどの衝撃を受けた場面から始まります。もっともその感覚は、その本を持っていた天使のように美しい女子学生ジャーナンによって増幅されたものなのかもしれません。ジャーナンにはメフメットという恋人がいたのですが、メフメットは銃で討たれて失踪。彼を追ってジャーナンも失踪。そして主人公も2人を追って長距離バスを乗り次いで広大なトルコを彷徨います。やがてジャーナンと出会った主人公は、ついにメフメットの生家にたどり着くのですが、そこには西洋化に抵抗する秘密組織がありました。

 

西洋文化に憧れながら西洋化を怖れるという思いは、当時のトルコにとっては一般的な感情だったのでしょう。いや、現在においてもトルコとEUの距離感を見る限り、まだ多くの人々の心の底に蠢いている感情なのかもしれません。本書が書かれてから四半世紀が過ぎた今、著者の関心は暴力的に近代化させられてしまったイスタンブルへの郷愁に移っているようですが、当時はまだ現在進行形であった問題です。私がトルコを訪れたのもその頃のことなので、今再訪したら驚かされるのでしょう。

 

本書の話に戻ります。「いい本はぼくらに世界すべてを思い出させてくれるもの」であり、「ある種の死が語られている文章などだ」というメフメットの言葉を、主人公はどのように理解したのでしょう。そして彼は主人公が抱いた感情は、彼にどのような行動を取らせたのでしょう。物語の中で再三起こるバス事故。イスラムと西洋の天使のイメージ。そして後の『無垢の博物館』の著者にふさわしい、記憶が宿る「もの」の数々。既に消えつつあった「新生印のキャラメル」などには、郷愁以上の感情が込められているようです。

 

2020/10