りぼんの読書ノート

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路上の人(堀田善衞)

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13世紀初め、同じキリスト教徒でありながら異端と断じられたアルビジョワ十字軍のことを知ったのは、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』でのことでした。1985年に執筆された本書が、1980年にイタリアで出版された『薔薇の名前』に触発されたものかどうかはわかりませんが、アリストテレスの「喜劇論」が重視されるなどの共通点も見受けられます。それでも佐藤賢一オクシタニア』や帚木蓬生『聖灰の暗号』より20年も先行して、このテーマに取り組んだわけです。 

 

語り手は「路上のヨナ」と称ばれる浮浪人。下層階級の無学な人物ながら聡明で世知にたけ、外交使節や学僧や騎士の従者として東奔西走することもある人物です。彼をカタリ派と関わらせることになったのは、「キリストは笑ったのか」というテーマを探求してトレドで毒殺された修道僧セギリウスに仕えたことでした。次いでヨナは、セギリウスの盟友であったという法皇の秘書官アントンに仕えますが、当時カタリ派最後の拠点であるモンセギュールに籠る女性と因縁を持っていたのです。 

 

さまざまな問題を描き出した作品です。当時のキリスト教会の不寛容。紙一重の存在である聖者と異端。フランス王室の野心。皇帝と法王の間で苦しむ民衆。アントンを先見的な合理主義者であったフレデリック2世の息子とし、いくつもの立場を兼ねる人物として造形したことが、物語りに深みを与えているようです。そしてヨナを素朴な民衆の代弁者としたことも。『カラマーゾフの兄弟』の大審問官や、『クオ・ヴァデス』のペテロを彷彿とさせるエピソードすら登場させたことは、複雑に絡み合った問題を読者に理解させるためなのでしょう。 

 

そしてついにモンセギュールが陥落した日に、アントンとヨナは何を見ることになったのでしょう。そして読者は知るのです。本書における「路上」とは「町や田舎の定住者」に対してのみならず、「教会」に対立する概念であることを。さらに著者が本書で訴えたかったことは、遠い中世の問題ではなく、現代もなお形を変えて繰り返されている「異端審問的なこと」への告発であることを。今なお色褪せていない作品です。 

 

2020/8