著者の作品を読むといつも、優れた短篇小説には、人生の断章を切り取る視点と、最小限の文章で余韻を生み出す表現力とが必要であることを感じさせられます。20世紀の短編小説家としては、アリス・マンローと双璧ではないでしょうか。本書はとりわけ、アイルランド的な諦観と受容をテーマとした作品が多い短編集です。
「ピアノ調律師の妻たち」
盲目の男性の後妻となった女性は、亡くなった先妻が夫のために築き上げた美しい虚構の世界を崩していくのです。それは嫉妬なのでしょうか。夫はそれに気付きながらも、かつての思い出が崩れ去っていくことを受容するのです。
「ある友情」
社会的には立派な判事の夫は、実は妻に対してはモラハラ男です。息子たちの悪戯を防げなかった妻に対する罰は、妻の親友の女性との別れでした。もっとも親友のほうも、友人に対して浮気をそそのかしたりしていたのですが。
「ティモシーの誕生日」
毎年の誕生日に老父母を訪れていた息子が姿を見せなかったのは、ホモセクシュアルの老人から遺産を相続したことを後ろめたく思っていたからなのでしょうか。しかし老父母は、息子が代理で送った若者の盗みさえ受け入れているのです。
「子どもの遊び」
ダブル不倫の末に結ばれた夫婦の連れ子同士が兄妹となります。親の真似をして結婚と不倫の会話を演じて遊ぶ2人でしたが、やがて親の都合で引き離されてしまうのでした。子どもは無力です。
「小遣い稼ぎ」
法皇訪問を祝う街でケチな空き巣を企んだ若者たちが、留守番の老人に顔を見られてしまいます。もちろん彼らは老人を殺害するほどの悪人ではありません。逮捕の予感に怯えながらも、その一晩を遊び歩くことしかできないのです。
「アフター・レイン」
男と別れた女性は、かつて両親と泊まったイタリアのペンションを訪れます。離婚した両親がその時すでに諍いを抱えていたことに気付いた女性は、雨宿りに立ち寄った教会で受胎告知の絵画を見て、自分の軽率な真情に気づくのでした。「愛への信頼を取り戻すために恋愛を利用した」と。
「未亡人姉妹」
夫を失ったばかりの未亡人が、夫が払ったはずの負債を取り立てようとする詐欺事件に遭遇。苦労人の姉の忠告を無視して、妹は亡夫の名誉を守るためにそれを支払うのです。異なる結婚生活がもたらした違いに気付いた姉妹はそれぞれに、その違いに寄り添って生きていくのでしょう。
「ギルバートの母」
息子の特異な性格に気づいてしまった母親は、異常な事件が起こるたびに息子の仕業ではないかと怯えます。しかし彼女は、それが自分に与えられた運命であるとして、それを受け入れるのです。
「馬鈴薯仲買人」
巡回司祭とひと夏の恋に落ち私生児を生むと言い張った娘に対して、厳しい家長の伯父は冴えない馬鈴薯仲買人との結婚を申し渡します。しかし純朴な夫の優しさに、妻の心もほだされていきます。関係者全員の反対を押し切って、母が娘に出生の秘密を明かした時でさえ、夫は妻を許すのです。
「失われた地」
最もドラマティックな作品です。カトリックの聖女と出会ったと信じたプロテスタントの少年が、過激派の兄によって銃殺されてしまうという悲劇が起こります。残された家族は、過酷な現実を受容するしかないのでしょうか。
「一日」
優しい夫との結婚生活で唯一の心残りは、子供ができなかったことでした。あることをきっかけにして、妻は夫の不倫を疑いアルコールに浸っていくのですが、これは妻の幻想にすぎなかったのかもしれません。
「ダミアンとの結婚」
年老いた父親は、最愛の娘が自分の親友である詩人崩れの男と結婚しようとすると聞いて嘆きます。しかし彼はあきらめなければならないのでしょう。これもまた受容をテーマとした作品です。
2020/8