りぼんの読書ノート

Yahooブログから移行してきた読書ノートです

男も女もみんなフェミニストでなきゃ(チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ)

f:id:wakiabc:20210921133449j:plain

『半分のぼった黄色い太陽』や『アメリカーナ』でベストセラー作家となった、ナイジェリア出身の女性作家によるTEDスピーチです。2012年に行われたこのスピーチは話題となり、ディオールのパリコレでも同名のロゴTシャツが登場するほどだったそうです。「シングルストーリーの危険性」を説いてステレオタイプの思考を否定する著者は、どのようにフェミニズムを語ったのでしょうか。

 

常に自分の体験談から語り始める姿勢がいいですね。子供時代の体験や、親友だった男性からの指摘などのエピソードは、いかに男性優位の思想が社会的に満ちているかを考えさせてくれます。しかもそれに抵抗するフェミニズムという言葉が、いかにネガティブな重荷を背負わされているかということも、。著者は、フェミニズムとは男嫌いで不幸な女性による非アフリカ的な思想だとの非難に対して、「男嫌いではないハッピーなアフリカ的フェミニスト」と名乗っているそうです。もちろんここは笑う所なのですが、内容は深いのです。

 

社会に進出した女性がどれほど「好かれるふり」をしているか。世界にはどれほどの「好まれる女性になるための情報」が溢れているか。女性の成功がなぜ男性にとっての脅威となるのか。男性が結婚生活のために犠牲にするのは趣味や娯楽にすぎないのに、女性はキャリアや夢を捨てなくてはならないのか。そしてなぜ女性は互いを競争相手とみなすように育てられるのか。自然に受け入れられる言葉に溢れている本書は、とりわけ男性にお勧めしたいですね。「We should all be feminists」のタイトルにふさわしい作品です。

 

2021/10

 

戦争は女の顔をしていない(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ)

f:id:wakiabc:20210921133336j:plain

著者は2015年のノーベル文学賞受賞者ですが、最初に読んだ『セカンドハンドの時代』には驚きました。M1グランプリで漫才論議があったように、これが文学なのかと思ったのです。自らをジャーナリストであるとする著者の地の文はほんのわずかであり、ほとんどがインタビューなのですから。しかし数多くの証言記録を読み終えて、深い感動に沈みながら思ったのです。やはりこれは文学であると。そしてその手法は、著者のデビュー作にして代表作である本書からずっと変わっていません。

 

本書のタイトルは「今まで戦争は男によって記されてきた」ということなのでしょう。戦争の背景や意義や経過や結果を論理的に綴ったものが大半であるところに、元女性兵士たちの肉声によって綴られた本書が登場したことは驚きだったことでしょう。ヒロシマナガサキ語り部の物語を彷彿とさせますが、数百人もの人々の声の集大成は、もはや個人的な思いを越えた歴史となっているのです。

 

第2次大戦に従軍した百万人を超える女性兵士たちは、看護婦や軍医や料理洗濯係だけでなく、歩兵、工兵、通信兵、狙撃兵、戦車兵、飛行士など、ほとんどの兵種に及んでいます。このような女性たちの大半は、祖国を守るために志願した兵士であったこと。そして年端もいかない少女たちが、想像を絶するような戦争の真実に触れてしまったこと。その一方で占領された地域の女性たちはパルチザンとして、家族が人質に取られているような苦しい戦闘を強いられたこと。

 

悲惨な物語ばかりではありません。戦場でのロマンスや、勝利の喜びや、綺麗さや可愛さなどの女性らしさをちょっぴりでも保とうとして苦労したことや、女性同士の友情など、美しく昇華された思い出も数多くあります。しかし、多くの女性が戦後は世間から白い目で見られ、みずからの戦争体験をひた隠しにしなければならなかったと聞くと、浮きたった心はたちまち凍りついてしまいます。それらを含めて本書には、著者がはじめて明らかにした真実がぎっしりと詰まっているのです。「インタビュー相手の沈黙に負けない執念と勇気と情熱を持ち、同時にいっしょに泣く感性を持ち合わせている」著者にしてはじめて成しえた偉業といっても差し支えないでしょう。

 

2021/10

 

古都(川端康成)

f:id:wakiabc:20210921133215j:plain

言わずと知れた日本人で初めてノーベル文学賞を受賞した大作家ですが、今まで数冊しか読んだことがありません。小学校の国語の教科書で紹介されるような作家は苦手だったのです。原田マハさんの『異邦人(イリビト)』が本書へのオマージュであるとのことで、手に取ってみました。

 

主人公は、京の呉服問屋の一人娘として美しく育った千恵子。捨て子であったものの、両親からは実子同様に愛されていた彼女が、祇園祭の夜に、自分に瓜二つの村娘・苗子に出逢ったことから物語が動き出します。千恵子に惹かれる幼馴染の真一と竜助の兄妹。身分違いの千恵子への恋情を諦める代償として苗子に接近する、帯職人の息子・秀男。そして互いに懐かしみあいながら、育った環境の違いもあって、一緒に暮らすことはできないという苗子。実は双子であった千恵子と苗子の、まるで北山杉のような意志の強さは、養父を含めた京男たちの軟弱さと好対照です。

 

その背景に描かれるのは、平安神宮御室仁和寺の花見、葵祭、鞍馬の竹切り会、祇園祭、大文字焼、時代祭、北野踊などの京の風物詩。新潮文庫版の解説を書いている山本健吉氏は、「京都の風土、風物の引立て役としてこの二人の姉妹はある」と書いていますが、私も同感です。京の名所や四季を描く文章は美しいけれど、物語としての内容は薄い。ノーベル文学賞の授賞対象作にもなった著者63歳の作品ですが、国内より海外での評価の方が高いのは「美しい日本の京都」への外国人の憧憬びせいなのかもしれません。

 

2021/10

朱夏(宮尾登美子)

f:id:wakiabc:20210921133056j:plain

土佐の高知の花街で生まれ育った著者は、高等女学校を卒業して代用教員となった翌年に17歳で同僚の教師と結婚。ここまでの生涯は、綾子という主人公の女性に託されて『櫂』と『春燈』で描かれています。そして「人間一人の一生にも匹敵する長さ」と思われた1年半の出来事が本書で綴られます。

 

土佐から入植した開拓団の子弟教育にあたる夫とともに、生後間もない娘を連れた綾子が満州に渡ったのは1944年3月のことでした。まだお嬢様気分も抜けていない18歳の綾子にとっては、夫の実家である農村の息苦しい生活から逃げ出す意味合いもあったようです。しかし当時は既に日本軍の配色は濃く、満州においても物資は不足し治安も悪化。満州の厳しい風土と相まって開拓団や教師たちの苦労は並大抵のものではありません。そして数か月後に敗戦。ソ連軍の侵攻と満州民の造反の中で満州国は崩壊し、集結地での拘留生活を経た後に1946年9月に帰国を果たします。

 

明日をも知れない極限状態の中で、人々は裏切り、騙し合い、身を落としていきます。綾子ですら他人の持ち物に手を出したり、幼い娘を売るという妄想すら頭をよぎったりするのです。その一方で綾子は、日本人にとっては希望であった満州の開拓が、中国人にとっては侵略と略奪にすぎなかったことに気付かされます。個人的な体験が、歴史的な広がりの中で位置づけられるわけですが、もちろん著者はそんなことを声高に叫んだりはしません。そのあたりは綾子が人間的に強くなっていく過程で自然に描かれるわけです。

 

著者が作家を志した原点である本書は、帰還から34年後に書き始められました。この体験を文学的に表現できるようになるまで、それだけの年月を要したのでしょうが、それでもなお「書いていて嫌であった」とのこと。文字通り、壮絶な作品です。

 

2021/10

パチンコ 下(ミン・ジン・リー)

f:id:wakiabc:20210921132929j:plain

劣悪な環境の中で兄嫁とともに戦中の大阪を生き抜き、2人の息子を育て上げたソンジャのもとに、初恋の相手であったハンスが姿をあらわします。日本の裏社会で大きな存在感を持つハンスは、これまでもずっとソンジャの一家を助けていたというのです。しかし成績優秀で早稲田大学の学生となった長男ノアは、自分の実の父親がハンスであると知って動揺を隠せません。失踪したノアは、後に日本に帰化する道を歩むのですが、自身のルーツに悩み始めます。

 

その一方で学業は振るわないものの正義感を持つ次男モーザスは、大阪でパチンコ店を経営する在日コリアンの後藤に見いだされて就職。フロア長から店長へと出世の道を歩み、やがては横浜で自分の店を持つに至ります。友人の母が営む仕立屋でお針子をしていた由美と結婚して、ソロモンという息子を得るものの、アメリカへの移住を夢見ていた妻は事故死。ソロモンは祖母ソンジャに育てられます。戦争から復興してゆく日本社会で、まるでパチンコの玉のように運命に翻弄されるソンジャと息子たち、そして孫たちの物語は、どこにたどり着くのでしょう。

 

移民1世のソンジャたちの苦労は貧困の中で生活を成り立たせることでしたが、移民2世である息子たちは、アイデンティティの問題で苦悩します。アメリカで教育を受けた移民3世のソロモンでさえ、この問題とは無縁ではいられません。日本と韓国と朝鮮のエアポケットに落ちてしまったような在日コリアンという存在の生き方の物語が、移民の国アメリカで共感されたのは、この部分にあるのでしょう。アイルランド系、イタリア系、ユダヤ系、アフリカ系、中国系、インド系、日系などの移民の物語には、優れた作品が多いのです。とはいえ、圧倒的な物語の面白さがなければ小説はヒットしないもの。本書を読めば、それがわかるはずです。

 

以下は余談です。あるイギリスの文豪の作品で、主人公のユダヤ人男女にイスラエル建国の理想のためにイギリスから出国するというハッピーエンドの物語があるそうです。それは不必要な外国人を排除するための口実でなないかとの指摘を読んで、「キューポラのある町」を思い出しました。今の感覚では考えられませんが、理想国家である北朝鮮のために帰国した者が大勢いた時代の話です。彼らの不幸な末路については本書の中でも触れられています。

 

2021/10

パチンコ 上(ミン・ジン・リー)

f:id:wakiabc:20210921132839j:plain

1979年に家族とともにソウルからニューヨークに移住した少女は、アメリカで弁護士となり、そして作家になりました。学生時代の1989年に着想を得たという在日コリアンの物語は、ひとたびは草稿もできあがったものの、東京在住時代に行った取材に基づいて一から書き直し、2017年に本書として刊行に至ったものです。その年の全米図書賞の最終候補にまでなりました。

 

4世代に渡る在日コリアン家族の長い物語は、1910年の釜山から始まります。日本が大韓帝国を併合した年に、釜山のすぐ南にある影島(ヨンド)の漁村に住む夫婦は、身体に障害があるものの利発な一人息子の将来を考えて下宿屋を開きます。やがて息子は若い嫁ヤンジンを娶って一人娘ソンジャを得ますが、彼女が13歳の時に結核で死亡。そして物語は、ソンジャの恋愛によって動き始めます。

 

日本との貿易に携わる都会人ハンスと恋に落ちた16歳のソンジャは、やがて身籠りますが、彼には日本に妻子がいると知らされて苦悩します。そんなソンジャに手を差し伸べたのは、下宿に滞在した若き牧師イサクでした。彼はソンジャの子を自分の子として育てると誓い、ソンジャとともに兄が住む大阪の鶴橋に渡るのです。そしてハンスとの息子である長男ノアと、イサクとの息子である次男モーザスが生まれますが、時代は戦争へ、そして敗戦へと向かっていくのでした。

 

日本統治下の朝鮮で起きた現地人への虐めや、日本人による在日コリアンへの差別など、日本人にとっては居心地も悪い部分も含まれますが、本書は日本人を糾弾するための作品ではありません。著者の夫は日本人とのハーフであり、作品には善良な日本人も悪辣なコリアンも登場してきます。問われるべきは在日コリアンという存在が生み出されて現在に至ってしまった歴史的・構造的な問題であり、「私たちにできるのは、過去を知り、現在を誠実に生きることだけだ」という著者の言葉には重みを感じます。本書は、アメリカに移民した著者自身の物語でもあるのでしょう。下巻では、息子たち、孫たちの世代の物語が描かれていきます。

 

2021/10

 

華氏451度(レイ・ブラッドベリ)

f:id:wakiabc:20210921132701j:plain

華氏451度は摂氏232度であり、紙が燃える温度です。書物の所有が禁止され、発見された書物は焼き尽くされてしまうディストピアを描いた本書は、映画化もされた有名な作品ですが、今まで読んだことがありませんでした。始皇帝焚書坑儒や、ナチスによる書物の粛清(ツォイベルング)や、戦後アメリカのマッカーシズムのような、為政者による言論封殺を批判する警鐘の書という印象を、なんとなく持っていたのですが違いました。書物の禁制化は、人々が自ら望んで招いたものだったのです。

 

主人公は隠匿されていた書物を焼く「昇火士」という職業に就いているモンターグ。自らの仕事に誇りを持っている模範的な隊員でしたが、そんな社会の在り方に疑問を投げかける風変わりな隣家の少女クラリスと出会ってから、彼の人生は変わり始めます。振り返れば妻のミルドレッドは、テレビ壁と巻貝イヤホンに支配された人生をおくっていて、睡眠薬を飲みすぎて死にそうになっても覚えていないほど。やがてモンターグは仕事の現場で拾った本を読むという違法行為に手を染め、ついには彼自身が追われる身となっていくのでした。

 

モンターグの上司である博識で狡猾なベイカーが語る、この世界の成り立ちが秀逸です。この世界は愉しみと心地よさを求める一般大衆が自ら招いたものであり、テクノロジーと大衆搾取と少数派からのプレッシャーは引金を引いたにすぎないと。そして大衆を従順にとどめおくためのコンテンツとして、スポーツや音楽やクイズやメロドラマだけが残ったのだと。1953年に書かれた予言は、なんと見事に的中してしまったのでしょう。

 

この都市国家が「わずか3秒間の戦争」によって一瞬にして破壊されてしまうという聖書的なエンディングには賛否両論あるのですが、そこはもはや問題ではありません。

 

2021/10