りぼんの読書ノート

Yahooブログから移行してきた読書ノートです

罪の声(塩田武士)

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1984年から翌年にかけて発生して、未解決のまま2000年に時効が成立したグリコ森永事件は、不思議な事件です。怪人20面相を名乗って警察を挑発するという愉快犯的な手口に加えて、グリコ社長誘拐や青酸菓子のばらまきなどの凶悪な一面も持っているのです。全国の菓子を人質にとりながら、結局のところ身代金は手にしていません。企業との裏取引や、乱高下した株価操作で稼いだ可能性は残るのですが。

 

もうひとつの特徴は、身代金受け渡しを誘導する際に子供の声が使われたこと。本書は、この事件が子供を巻き込んだ事件であり、その子供たちはどのような人生を歩んでいるのかとの著者の深い思いから書かれた作品です。

 

物語は、京都でテーラーを営む曽根俊也が、父の遺品の中からカセットテープと黒革のノートを見つけたところから始まります。ノートには英文に混じって製菓メーカーの名前が記されており、テープには自分の幼い声が録音されていました。それは恐喝に使われた音声とまったく同じものだったのです。一方で新聞社の文化部記者である阿久津英士は、この事件を特集するという社の企画のために駆り出されます。

 

俊哉は伯父の友人の助力を得て、英士は犯人の無線の傍受者を発見したことを手掛かりに、堺の小料理屋にたどり着きます。そここそが犯人グループが「手打ち」を行った場所だというのですが、では犯人は2組いて仲間割れを起こしそうになっていたのでしょうか。やがて2人の捜査が交錯したときに、事件は解決へと動き出すのですが、その陰にはやはり子供の声として使われた姉弟が歩んだ悲惨な人生がありました。

 

グリコ森永事件に触発されて書かれた小説としては、高村薫さんの『レディ・ジョーカー』がありますが、そちらのほうが読後感が良かったですね。本書では犯人グループの実行犯サイドはヤクザであったという設定なのですが、人道から外れたことを平気で行う人種が絡んでくると、物語は悲惨になってしまうのです。ついでながら本書で、この事件を契機として菓子が包装されるようになったことを知りました。現在の日本の食品過剰包装問題も生み出していたのですね。

 

2021/2

 

サイバー・ショーグン・レボリューション(ピーター・トライアス)

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第二次世界大戦の勝者が枢軸国側であり、アメリカは日独に分割統治されているという設定の歴史改変SFは、『ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン』と『メカ・サムライ・エンパイア』に続く本書で完結します。

 

第1作が1988年、第2作が1990年代を舞台としていたのに対し、本書の舞台は2019年。前作から20年以上が経過しているわけですが、アメリカの状況はそれほど変わっておらず、今や対立する日独は沈黙線を挟んでにらみ合っています。日本軍がガンダムのような機甲戦士を主力としているのに対し、ドイツ軍の主力は遺伝子組み換えによるバイオ兵器。ナチスが生体実験をしていたことからの連想なのでしょう。現在でも人種差別や拷問を温存させているドイツに比べると、日本の統治はまだマシなのですが、強大な特高権力や日本文化の押し付けなど、日本人としては心痛む設定も多いのです。

 

本書の主人公は、若き機甲戦士である守川励子。仇敵ナチスと癒着しているという日本合衆国総督を倒すために決起した軍人の秘密組織「戦争の息子たち」に参加しています。クーデターは成功したものの新政権も厳しい粛清を行って失望の空気が生まれつつ中で、ブラッディマリーと名乗る謎の暗殺者が「息子たち」の会員を次々に殺害するという事件が発生。幼馴染の特高警察官ビショップとともに捜査を進める励子が見出したものは、機甲軍のエースパイロットたちを含む新たな陰謀だったのです。

 

巨大剣や電磁銃や寄生微小ロボットや加速装置を繰り出しての、機甲戦士どうしの戦いは大迫力。第1作で若き特高警察官であった槻野昭子は警視監に昇進しており、第2作で士官学校の訓練生であった優等生お嬢様の橘範子は結婚で名字が変わって大西範子となっていますが、少佐に昇進してメカ基地司令官になっています。橘範子がアフリカ系日本人だったとは、前作の時点では全く気づきませんでした。天才的な問題児であった久地樂も再登場。皆、重要な役割を果たします。

 

ブラッディマリーの正体はあまりにも意外でしたが、はじめは敵対していた主要な登場人物たちが最後に目指すものはあまりにもアメリカ的。それはもちろん独立なのです。著者の日本文化への傾倒ぶりも随所に現れる、楽しい三部作でした。もともとSF小説家ではない著者は、本書をもってこのシリーズを終了するとのことですが、続編も書いて欲しいものです。ドイツ領アメリカでも独立運動が起こりそうな気配もありましたし。

 

2021/2

 

 

ダーク・ブルー(真保裕一)

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有人潜水調査船「りゅうじん6500」の活躍を描いた海洋冒険小説です。もちろんモデルは実在する「しんかい6500」であり、本書の日本海洋科学機関(JAOTEC)とは、国立の海洋研究開発機構(JAMSTEC)のこと。

 

大深度まで潜水できる調査船は世界で7隻しかなく、「6500」は日本のみならず世界の深海調査研究を担う重要な役割を果たしているのですが、建造は1989年と古く、近年では2012年に大改造を終えたところです。ただし経費削減が叫ばれる中で、それ以降は予算も職員数も先細り中。しかも深海調査の主役は有人船から無人ロボット船へと切り替わろうとしており、なかなか難しい立場にあるようです。

 

そんな中で完璧な結果を求められる深海実験に乗り出した航海で異変が起こります。なんと武装集団のシージャックに遭って母船が乗っ取られ、全員が人質にされてしまうのです。彼らの目的は、虐待され続けたフィリピンの少数民族解放のために、深海に沈んだ船から「世界を変え得る力を持つ宝」をサルベージすること。経験の浅い女性操縦士の夏海は、銃をつきつけるシージャック犯とともに調査艇に乗り込み、暗く蒼い海の底へとダイブしていくのですが・・。

 

著者は本書を、深海調査を巡る人々を描く群像劇としたがったように思えます。潜航チームのみならず、母船の船長をはじめとする乗員たち、潜水シミュレーターやロボットアームの開発を進める偏屈な大学教授や研究員たち。夏海と研究員の蒼汰が微妙な恋愛関係にあることや、最後の航海に出た母船船長・江浜のエピソードなどが盛りだくさんなのですが、少々ピントがぼけてしまった印象です。深海での息詰まるサルベージ作業の描写が見事だっただけに惜しまれます。もっと「冒険小説」に徹したほうが楽しい作品に仕上がったのかもしれませんね。

 

2021/2

 

私はゼブラ(アザリーン・ヴァンデアフリートオルーミ)

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イランの地で「独学・反権力・無神論」の3つの柱を掲げ、「文学以外の何ものをも愛してはならない」を家訓とするホッセイニ一族の末裔として生まれたビビの人生は、スタートポイントから歪んでしまいました。ビビが5歳の時に、イラン革命とイラン・イラク戦争を逃れるために、一家は国境を超えたのです。途中で母が事故死したこともあり、最後にアメリカにたどり着いた父は一層文学に沈潜。一人娘のビビを文学で武装させることに全てを費やしました。そんな父が20年後に病死したことを契機に、ビビは一大決心をするのです。

 

それは亡命生活で分裂した自己を取り戻すために、亡命の旅路を逆からたどり直すこと。父親の葬儀の際に幻視した光と闇の縞模様に啓示を得て、「虚無の女騎士ゼブラ」と名乗り始めたビビの武器は、もちろん文学です。彼女の鎧や槍は、過去の作家たちの偉大な言葉なのです。

 

はじめに向かったバルセロナで、アメリカでの唯一の師の地から紹介されて出会ったのは、ルネサンス期のラヴェンナでダンテを埋葬した一族の末裔である青年、ルード・ベンボ。相手にとって不足はない知のエリートのはずだったのですが、この青年はかなりのへなちょこ。ゼブラがドン・キホーテなら、ルードは彼女に仕えるサンチョ・パンサか、彼女に乗りこなされるロシナンテというところ。それでも惹かれ合った2人は、仲間を集めて「虚無の大巡礼」へと出発するのですが・・。

 

一見すると堅苦しい文章が続く本書は読みにくそうですが、著者は「読者には心の底から笑ってもらいたい」と語っています。そしてついでに「亡命者であるとはどういうことなのかを考えて欲しい」と言うのです。まず笑いという点が重要ですね。これを逆にして亡命者の悲劇を先に読み取ろうとすると、大げさで破天荒な物語が意味するものがわからなくなってしまいそうです。

 

2021/2

 

ののはな通信(三浦しをん)

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横浜のミッション系女子高に通う野々原茜(のの)と牧田はなの2人は、生まれも性格も正反対。庶民的な育ちで優秀でクールな性格のののと、外交官の娘で帰国子女で天真爛漫なはな。しかし2人は互いに友情以上の気持ちを抱き合ってしまったのです。一時は互いに運命の相手と思い定めますが、高校時代の恋愛感情なんて、異性同志だって続かないもの。ある事件をきっかけに2人の関係は終わりを迎えてしまいます。それでも2人の交友が終わらないのは、女性同士だからなのでしょうか。

 

最初から最後まで2人の通信文で構成された作品です。授業中に回したメモがやがて葉書や手紙になり、成人してからはメールになり、連絡が途絶えた期間は長い書簡を書き溜めた文章が、互いに抱いた感情はもちろん、2人が歩んだ人生を見事に表現しているのはさすがです。

 

本書を書き始めた時に30代後半であった著者は、40代女性がモチベーションとするものを描いてみたかったとのこと。だから2人の関係は、2人の間だけでは閉じません。ののは東大文学部を卒業した後にフリーライターとなって独身を通し、はなは外交官夫人となって海外で生活。しかし読者は不穏な未来を想像してしまうのです。ののは、東北の海岸地方に頻繁に取材に出かけるようになり、はなは、政情不安が高まるアフリカの架空の国に留まり続けます。そしてメールの日付は2011年にさしかかろうとしているのですから。

 

どちらの女性も魅力的ですが、短い交際期間を経て人生の「回路が開いた」のは、はなのほうですね。普通ならお嬢様育ちのままエリート外交官夫人としての人生を送ったのかもしれませんが、奔放で過激な生活を選択するのですから。著者は「人にとって必要なのは自分とは異なる存在だ」と語っていますが、同感です。「恋人じゃなきゃ」なんて贅沢は言わないそうですが。

 

2021/2

 

 

忘却についての一般論(ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ)

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ポルトガル系とブラジル系の両親を持ち、1960年にアンゴラで生まれた著者は、今もアンゴラに居住してポルトガル語で創作を続けている作家です。1975年に独立を達成した後も27年間に及ぶ泥沼の内戦に苦しんだアンゴラの作家というと、重いテーマを重い口調で語りそうなものですが、本書はそうではありません。内包しているテーマは重いものの、本書には逞しく、華やかで、コミカルな人々が多く登場するのです。

 

主人公はポルトガル人女性のルドヴィカ(通称ルド)。「ある事件」以来、広場恐怖症で姉の世話になり続けていたルドは、姉がアンゴラポルトガル系オランダ人である鉱山技師と結婚した際にアンゴラの首都ルアンダに移り住みます。しかしその時アンゴラでは、独立戦争が激化しつつあったのです。動乱のさなかに姉夫婦は消息不明となり、ルドはマンションに閉じこもります。部屋の入り口をセメントで固めて愛犬とともに孤立し、姉夫婦が貯蔵していた膨大な食料品と、部屋に連れ込んだ鶏と、屋上テラスの野菜や果物で生き延びます。しかもその生活は27年間も続いたのでした。

 

長生きしてくれた飼い犬が亡くなってからは、全く孤独な生活となり、飢えは常態に。銃声や叫び声などの外界の騒音には耳を閉ざし、ベランダから眺める乱闘や虐殺には目を背け、ひたすら自己と対話する言葉をありとあらゆる紙や壁に記し続ける日々。しかし外界の独立戦争と内乱を乗り越えた人々が、運命に手繰り寄せられるようにしてルドのもとに集まった時に、ついに扉が開くのです。

 

その時に居合わせたのは、ルドとも奇妙な関りを有しながら、それぞれに数奇な人生を歩んだ人たちでした。秘密警察の捜査官であったモンテ。彼に捉われて銃殺刑に処せられたものの奇跡的に生き延びた傭兵のジェレミアス。やはり彼に捉われて棺桶に入って脱獄したペケーノ・ソバ。失踪事件の捜査を頼まれたダニエル。母親を殺害されたストリートチルドレンのサバル。ダイヤモンドや伝書鳩を用いて政治犯を救い続けた巨体の修道女で看護師のマダレナ・・。

 

次々と不思議な事件を起こしてみせて、後からさりげなく種明かしをしていくという手法は、本書の内容とよくマッチしていました。ひとつだけネタバレを書いてしまうと、ルドが少女時代に遭遇した「ある事件」とは強姦です。本書は被害者なのに売女とののしられた少女が、長い長い時を経て解放される物語でもあるのです。もちろんルドが部屋に籠り続けた27年間は、内戦の期間です。ナチスが支配した時代に成長を止めていた『ブリキの太鼓ギュンター・グラス)』のオスカルと共通するものを感じます。

 

2021/2

 

サガレン(梯久美子)

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「サガレン」とは「サハリン」の旧名のこと。何度も国境線が引き直された国境の島です。もともとアイヌ、ニブフ、ウィルタなどの民族が暮らしていた島に、日露両国が入ってきたのは江戸時代の末期。1854年の日露和親条約では帰属未定のままであったサハリンは、1875年の樺太千島交換条約で全島がロシア領土となり、1905年の日露戦争講和条約では北緯50度線以南の南半分が日本領土に、そして1945年の太平洋戦争直前にソ連が全島を占領するのです。両国間に平和条約が未締結であるため、国際法上は帰属未確定のままロシアが実効支配を続けているのです。

 

本書は、サハリンの南半分が日本領土だった時代にこの地を訪れた林芙美子宮沢賢治の足跡をたどった著者が、さまざまな思いを詰めこんだ紀行作品です。地名ひとつをとっても何度も変更されてきたサハリンの「歴史の地層」を主に鉄道で旅した著者は「鉄チャン」だったのですね。しかも「乗り鉄」に加えて「廃線ファン」でもあるとのこと。サハリンでも少ない滞在時間の中で、現在の鉄道北端であるノグリキから島の最北端のオハを結んでいた廃線の一部を歩いています。

 

ところでサハリンには、いわゆる観光名所はありません。芙美子や賢治をはじめとする人々を引き付けたものは、どうやら「陸の国境線見学」だったようです。もっとも1934年のサハリン旅行直前に共産党への資金援助を疑われて拘留された芙美子は、警察に警戒されて国境行きを断念せざるを得なかったようです。ちなみに1937年に女優・岡田嘉子共産主義者の杉本良吉とともに超えた国境とは、サハリンの北緯50度線のこと。

 

著者が紹介してくれる芙美子の『樺太への旅』は面白いですね。風景の説明のみならず、当時としてはヤバそうな政策批判や、旅先で出会った人や食事のことが細かく記されていて、当時の風俗や雰囲気を今に伝えてくれるのです。白浦(現ヴズモーリエ)駅で「パンにぐうぬう」と呼び売りをしていたというロシア人のことを、革命時の政治犯でサハリンに流刑され、日本領となった際に残留したポーランド人・ムロチコフスキなる人物であったことをつきとめた著者は、「芙美子に教えてやりたい気持ちになった」と記しています。

 

一方で、1923年にサハリンを旅した宮沢賢治は、むしろ自分の内面に深く沈み込んでいくようです。その前年に最愛の妹トシを亡くしていた賢治は、その長い旅路を「青森挽歌」、「宗谷挽歌」、「オホーツク挽歌」、「樺太鉄道」、「鈴谷平原」などの詩編に綴っています。著者によると、花巻を出てから樺太の地に立つまでの詩は深い悲しみと怒りで満ちており、死を思わせるフレーズも多いとのこと。しかし樺太で書いた詩は、不思議なほどに澄んだ空気が流れており、風景描写も生き生きとしているというのです。この旅が転機となり、『銀河鉄道の夜』の構想を得たのであろうという著者の推測は、おそらく当たっているのでしょう。

 

2021/2