りぼんの読書ノート

Yahooブログから移行してきた読書ノートです

荒野へ(ジョン・クラカワー)

1992年4月。東海岸の裕福な家庭に育った若者が、ヒッチハイクでアラスカまでやってきて、マッキンレー山裾野の荒野に単身徒歩で入っていきました。その若者クリストファー・マッカンドレスは4カ月後に、放置されたトレイルに打ち捨てられたバスの中で餓死死体となって発見されることになります。いったい彼はなぜ家を捨て、荒野に分け入り、命を落とすに至ったのでしょう。登山者でノンフィクションライターである著者が、綿密な取材をもとにして、青年の軌跡をたどった作品です。

 

当初は亡くなった青年について、ネガティブな見方をした人が多かったようです。甘やかされて育った青年がヒッピー的な生き方を選んだ末に野垂れ死んだのではないか。何らかの理由で人生に絶望して自殺したのではないか。アラスカの大自然を甘く見た無謀な冒険の結果ではないか。そんなコメントが数多く、ニュースを報じたマスコミに寄せられたのも無理はありません。

 

しかし著者は、そのどれもが真実ではないことを突き止めていくのです。家父長的な父親への反抗心が家を出た理由であり、NASAのエンジニアであった父親が体現している科学技術や財産を否定したところから、彼の放浪が始まったことは間違いないでしょう。しかし著者は、それらは単なるきっかけにすぎなかったと言うのです。青年は本能的な冒険者であり、生きる意欲に満ちており、厳しい自然の中で生きる技術も有しており、彼の死は偶然による不幸な事故によるものであったと言うのです。

 

著者はなぜそのような結論にたどり着いたのでしょう。「彼と私の人生がどことなく似ている点があるように思えた」と語る著者は、個人的な見解に事実を引き寄せてしまったのでしょうか。もちろん本書を丁寧に読めば、そうではないことが理解できます。優れたノンフィクションライターには、鋭い着眼点と、客観的な事実を歪めることのない公正な視点が求められるのでしょう。どちらも昨今の日本の週刊誌記事に欠けているものであるように思えます。余談ですが「マッカンドレスのバス発見地点」をグーグルマップで特定できたことには驚きました。

 

2024/5

新古事記(村田喜代子)

日米開戦後の1943年。日系3世であることを隠して生きてきた若い女性アデラは、恋人の物理学者ベンに連れられてロスアラモスへとやってきました。そこはオッペンハイマーノイマン、ボーア、フェルミらをはじめとする錚々たる物理学者たちが集まって秘密の研究を進めている極秘の科学都市。やがて2人はそこで結婚するのですが、夫の研究内容は知らせてもらえず、結婚したことを外界の両親に知らせることもできません。

 

私たちはそこで開発された核兵器が後に広島と長崎に地獄絵図をもたらし、今なお世界を滅亡させる力を有していることを知っていますが、当時の妻たちはただ静かに暮らすだけ。子どもを生み育て、近所づきあいをし、神に祈りを捧げ、ペットたちの世話をする平穏な日々が続いていたのです。しかし妊娠を告げられた日にホワイトサンズで行われた核実験の閃光と爆発音で、アデラはすべてを悟りました。次いで原爆が日本に投下されたニュースを聞いて、彼女は悪夢を見るのです。

 

「日本の小さな神たちが行き場を探して右往左往している。辺りは火火火火火火、赤いものがボウボウと襲いかかる。世界は戦さの火だらけだ。火火火火火火が荒れ狂う。小さい神々は蟹のように火火火火火火に追われて逃げ惑う。山の神も火火火火火火、川の神も火火火火火火に包まれ、樹木の神も立ったまま火火火火火火に焼け焦げていく。焼け滅ぼされていく。」

 

著者は、原爆開発に携わった物理学者の妻が記した『ロスアラモスからヒロシマへ』という古い手記を翻案して小説に仕上げました。手記の筆者は、後に国連関連の支援活動を行い、原爆慰霊碑の前で平和を念じたとのことです。本書はまた、無知で平凡な女性にすぎなかったアデラが、人権思想を有する聡明な女性へと変貌していく物語でもありました。「新古事記」のタイトルは、神話レベルの破壊力を有してしまった人類に対する戒めの言葉にほかなりません。

 

2024/5

汝、星のごとく(凪良ゆう)

瀬戸内の島で育った高校生の暁海と転校生の櫂。ともに心に孤独と欠落を抱えた二人は惹かれ合って結ばれるのですが、卒業後に櫂が上京するとともにすれ違いが始まります。と書くと「木綿のハンカチーフ」のような切ないラブストーリーのようですが、本書のテーマはヤングケアラーとならざるを得なかった若者たちが負った、心の傷の深さでした。暁海の母は夫の浮気と出奔で心を病み、櫂の母は恋愛相手に全てを捧げて捨てられる生活を続けて来たシングルマザーだったのです。

 

そんな2人が惹かれ合ったのは、互いに欠落を抱えていたからなのでしょう。しかし母親のケアを考えなくてはならない2人は、何度も結婚を考えながらも決断できません。そして2人がたどっていく人生のカーブはあまりにも対照的でした。櫂は自らの内面を吐き出すような漫画原作者となって売れっ子になりますが、ある事件をきっかけに転落していきます。一方で地元の事務員となって金銭的にも苦労していた暁海は、手に職をつけて自立していくのです。そんな2人が結ばれる日が来なかったことは、プロローグで明かされていますが、彼らがそこに行き着いた経緯が読者の興味を惹きつけていきます。

 

これまで家族や疑似家族という関係の中で、生きることの自由と不自由を描いてきた著者による恋愛小説です。恋愛をテーマとする小説やドラマが一段低く見られがちな現代において、恋愛に正面から取り組んだ作品と言えるでしょう。ただし「恋愛をする時って、人生のことも考えるじゃないですか」と語る著者による恋愛小説には、恋愛以外の要素も多分に含まれています。「リアルな恋愛小説」とはそういうものなのでしょう。

 

2024/5

未来散歩練習(パク・ソルメ)

『もう死んでいる十二人の女たちと』で、過去の光州事件や未来に起こり得る原発事故に対する静かな批判を抒情的に綴った著者が、釜山アメリカ文化院放火事件を題材として紡ぎあげた作品です。放火事件が起こったのは1982年のこと。2年前の光州事件軍事独裁政権による武力弾圧をアメリカが容認したことに対する異議申し立てとして起きた事件です。実行犯はカトリック教会との関係が深い5人の大学生でした。

 

本書では時代を超えた5人の女性たちの繋がりが描かれていきます。現代の物語ではソウルに住む作家「私」が釜山に通いながら放火事件当時のことを知るチェ・ミョンハンという女性と交流を深めていきます。過去の物語は、中学生のスミとジョンスンが、スミの若い叔母に当たる「ユンミ姉さん」とぎこちないつきあいを続けていきます。「ユンミ姉さん」は恩赦によって釈放された放火事件の実行犯のひとりでした。

 

特別の事件が起こるわけではありません。「私」は釜山の街を歩きまわりながら、過去と未来、過去において未来であった現在について思索を深めていきます。過去に事件に関わった人たちはどのような未来を思い描いていたのか。未来に来たるべきものについて考えた人たちは、すでに未来を生きていたのではないか。未来とは必ずしも次に起こることではなく、過去とは必ずしも過ぎ去った時間ではなく、現在とは過去と未来の間で粘り強く続ける「練習」の時間なのではないか。

 

それらの問いは必然的に読者にも跳ね返ってきます。私たちは今現在、どんな未来を思い描いて、その未来を手繰り寄せるための「練習」を続けているのでしょう。読者を選ぶ作家なのでしょうが、ふとマイケル・オンダーチェのことを思い出しました。『イギリス人の患者』でブレークした作家ですが、それ以外にも多くの優れた作品を書いています。

 

2024/5

笑い神(中村計)

いくつもあるお笑いのタイトルの中で、2001年から始まった「M1グランプリ」は別格の存在です。それは1千万円という高額賞金のみならず、無名の芸人を一夜にしてスターへと駈上らせるコンテストなのです。吉本興業内に作られた1人だけの新部署「漫才プロジェクト」の社員と、稀代のプロデューサー島田紳助のアイディアから誕生した企画が、なぜここまで権威を持つに至ったのでしょう。本書は2002年から9年連続でM1決勝に進んだ末にタイトル掴み、「M1の申し子」と言われた笑い飯の軌跡を中心として「M1の純情と狂気」を描いたノンフィクションです。

 

第1回優勝者の中川家と第2回優勝者のますだおかだは、既に中堅芸人としての地位を確立させていましたが、M1が注目を浴びたのは第3回で笑い飯が「奈良県立歴史民俗博物館」ネタを披露してからなのでしょう。2本目のネタですべった笑い飯フットボールアワーに優勝を譲りましたが、リアルタイムで見て大爆笑したと同時に新しさを感じたことを憶えています。大阪の地下芸人から出発した哲夫と西田の「尖ったお笑い」が、90年代に主流だった「アイドル系芸人のスマートで軽いお笑い」を一掃した瞬間でした。そしてM1が「誰が一番おもしろいか」を決める真剣勝負の場であることを強烈に印象付けたのです。彼らの後には、千鳥や麒麟が続いていきます。

 

2003年に狂気の話芸を披露したフットボールアワー、2004年に天才的なボケとツッコミを繰り出したアンタッチャブル、2005年に会話のズレを話芸に高めたブラックマヨネーズ、2006年に妄想漫才で会場を沸かせたチュートリアル、2007年に敗者復活から頂点に駆け上がったサンドウィッチマン、2008年にこれまでの路線を捨て去ったノンスタイル、2009年に6秒に1回の笑いを取ったパンクブーブー、そして2010年の笑い飯までが第1期。2015年に復活してからも、優勝を逃しながらもも強烈な印象を残したコンビを含めて、次々と新たなスターを生み続けています。

 

もちろんM1は、漫才という競技大会の1種目でしかありません。100m走以外にも中・長距離走ジャンプ競技、投てき種目、リレーや駅伝などの団体種目もあるのです。漫才とは何か、お笑いとは何か、その答えは人によってさまざまなのでしょう。それでも勝者と敗者の運命を分ける残酷さと、芸人たちがかける熱量がある限り、M1は花形種目であり続けるのでしょう。

 

2024/5

玉麒麟(今村翔吾)

江戸中期、田沼時代の火消したちの活躍を描く「羽州ぼろ鳶組シリーズ」も8作目になりました。今回の主役は頭取松永源吾を補佐する頭取並の鳥越新之助。侍火消にして府下十傑に数えられる剣の達人であり、しかも愛されキャラでありながら、今まで影が薄かったのは、火消に関してはゼロからの出発だったから。壊し手の寅次郎、纏番の彦弥 風読みの星十郎、一番組組頭の武蔵らよりも火消番付では下位に甘んじていたのです。

 

事件は独身の新之助が見合いを断るために、相手の商家を訪れた晩に起こりました。その商家が放火されて一家惨殺されてしまったのです。しかも燃え落ちる家から一家の娘を連れて出て来た新之助は、彼女を人質に取って火盗改や江戸の火消たちの包囲を打ち破り、逃走してしまったのです。新之助は闇落ちしてしまったのでしょうか。追い打ちをかけるように新庄藩に出入り禁止の幕命が下ります。動きを封じられた松永でしたが、代わりに立ち上がったのは新之助の人柄を知り、彼の無罪を信じる他の組の火消たちでした。

 

もちろん裏の事情があり、このシリーズで悪役を務めている一橋政済が黒幕なのですが、窮地に追い込まれた新之助の活躍と仲間たちへの信頼が本書の魅力です。彼の剣技を前面に押し出すことで、このシリーズでは珍しい剣戟物語となりました。新陰流の奥義を繰り出す際の描写などは、まるで藤沢周一のようです。ところで本書のタイトル「玉麒麟」は、もちろん「三国志」の豪傑・蘆俊義から来ています。剣の腕前を麒麟児と謳われていた新之助は、果たしてワンランク上に登る人間的な成長を見せたのでしょうか。

 

後の「鬼平」こと若き2代目長谷川平蔵も活躍しますが、いつものことながら脇役たちの描き方がいいですね。本書は、それぞれ特徴ある火消たちの群像劇でもあるのです。

 

2024/5

モノクロの街の夜明けに(ルータ・セペティス)

ルーマニア出身で最も恐ろしい人物はドラキュラではありません。24年間もの間、自分の城に居座って、2300万人もの人々に害を及ぼし、食料を、電気を、真実を、自由を奪った邪悪で残忍な人物がいたのです。その人物の名はチャウシェスク。本書はひとりの青年を語り手として、独裁時代の恐怖と、そこから立ち上がった人々の勇気を描いた小説です。

 

ごく普通の高校生であるクリスティアンは、秘密警察の諜報員によって密告者にさせられてしまいました。母親が清掃に行っているアメリカ人外交官の息子と、かつて自由主義者であった祖父をスパイするように強制されたのです。身に覚えのない些細なあやまちと、重病の祖父の薬というアメとムチから逃れることができなかったのです。家族や友人を裏切っているという罪の意識、信念に反したことをしている自分への嫌悪感、そして家族や友人の中にも密告者がいるのではないかという疑惑、彼は誰にも見せない秘密のノートに、自分の本当の気持ちを綴っていくのですが・・。

 

東欧諸国やバルト3国で自由化への動きが加速する中で、最後まで変化を拒んだのがルーマニアでした。それでも周辺諸国の情報は伝わってきます。一連の東欧革命の最後になってティミショアラで、次いでブカレストで暴動が起こり、ついに独裁は終わりを告げることになります。フィクションではあるものの多くのインタビューや歴史的事実に基づいて書かれた本書は、社会変革の高揚感とともに、そこへ至るまでの暗い日々、そして革命が遺した傷跡を丁寧に描き出しました。やはり物語の力は偉大です。クラウス・コルドンの『ベルリン3部作』を思い出しました。

 

著者はあとがきで、ルーマニアに住んでいたユダヤ人の運命について書き切れなかったことを正直に告白しています。かつて70万人いたユダヤ人がわずか3千人にまで激減してしまった背景には、どのような悲劇があったのでしょう。著者はいずれ別の作品で明らかにしてくれるのかもしれません。

 

2024/5